ただの風邪。

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「1分間のポップソング」という批評――Tierra WhackとThe Residents

 ポップソングの長さをめぐっては語りどころが山のようにある。SP盤からドーナツ盤、12インチシングル、CDにまで至る記録媒体の進歩がポップソングの長さを規定している、というかなり直接的な技術の観点からも分析できるし、作り手の表現に対する要求の高さが長尺のポップソングに結実するという話の仕方も可能だ。たとえばここ最近映画のヒットで何度めかのリバイバルを迎えているQueenBohemian Rhapsody」などがそうだろう。ラジオやジュークボックスに適した消費物としてのポップソングにとどまらない表現を志した結果、複雑な構成と長尺が貫かれた、というように。あるいは技術決定論の立場からは、レコードプレイヤーやウォークマンiPodSpotifyに至る聴取環境の変化がリスナーの嗜好を買え、音楽の形式にも影響を与えた、なんていうことも言えるかもしれない。とまあ、楽曲の長さに見られる特定の傾向への理由付けなんていうのはいくらでもあって、どれがより「真」であるかみたいなことを言ってもせんないことではある。

 しかしあるポップソングの長さそのものがきわめて批評的な意味を持っている、なんていう場合もある。その目覚ましい例としては、Tierra Whackが2018年に発表した『Whack World』が挙げられる。このアルバムは15曲が収録されているが、ランニングタイムはわずか15分。すべての曲がピッタリ1分なのだ。

 この特異な構成はInstagramにアップロード可能な動画の長さからヒントを得たといい、結果的に各々雑多なアイデアの断片になりかねない楽曲群をひとまとまりの「世界」に収めることに成功している。ポップソングの定石を外して自らひとつのかたちを発想し作り出すことのクリエイティヴィティを思わざるをえないし、そのインスピレーションがInstagramというきわめて現代的なツールから得られたものだというのも興味深い。

 とはいえ個人的なことを告白すると、この構成のユニークさに対する興味が先行して、楽曲の価値やアルバムとしての出来をあなどっていたところが否めない。年末になって発表された英語圏のメディアの2018年年間ベストにこの『Whack World』がしばしば挙がっているのを見て驚き、改めて歌詞やサウンドと向き合ったところ、たしかに新奇さだけにはとどまらない魅力があることも確かだった。ほんの1分間という限られた時間のなかで綴られるセルフエンパワメントとボースティング、そして恋人たちや友人たちにまつわる追憶と思索。それぞれの楽曲には十分なナラティヴとキャッチーなメロディが過不足なくおさめられていて、また言葉の選び方や遊び方、「ほのめかし」のスキルにソングライターとしてのTierra Whackのポテンシャルが垣間見える。

 「Instagramの動画みたいに、1曲1分に収める」という着想、そしてそのなかで実現されているソングライティングの確かさ、どちらもがポップソングのあり方(とりわけ長さ)についてきわめて重要な示唆を与えてくれる。まさに批評的な作品というほかない。ダウンロード/ストリーミング以降楽曲の長さを規定する技術的な要因というのはほぼなくなったと言っていい。そこで与えられた自由に対してどのようにアプローチするか。ただいたずらに「どれだけ長くてもいいなら詰め込んじゃおう」とするのではなくて、いま多くのリスナーが接しているコンテンツのあり方からヒントを得て新しい構成にチャレンジするというアプローチはきわめて現代的だ。聴き手にも作り手にもさまざまなヒントを与えてくれる。

 ところで、「1曲1分」という試みには前例がある。The Residentsの1980年作『The Commercial Songs』も、1曲1分というルールでつくられた楽曲ばかりが集められたアルバムだ。しかしこちらは収録曲が45曲。アルバムトータルのランニングタイムは45分になるから、平均的なLPの収録時間に倣っているわけだ。このアルバムの場合は楽曲の長さを決めた理由は、アルバムタイトルを見ればそのものズバリ、テレビやラジオCMの尺にある。日本のCMは15秒とか30秒がふつうだけれど海外だと60秒くらいのものもざら、特別なプログラム中に流されるCMならばもっと長い場合もある。実際にThe ResidentsはテレビのCM枠を買ってこの楽曲群のMVを放送するという試みにも打ってでた。

 しかしそこはThe Residentsのことなので、楽曲はどれも一筋縄ではいかない。メロディらしいメロディがない、ポエトリーリーディングのようでも適当な鼻歌のようでもあるヴォーカルが、ナンセンスでぎょっとするような歌詞をぬるっと歌っていく様ははっきり言って異様、リスナーフレンドリーさはほとんどない(たまに面白いギターのフレーズがあったりして楽しいっちゃ楽しいのだが)。要するにいつものThe Residentsなのだが、なにをもってこれを「ポップソング」と言わしめるのかといえば、実はこれらの楽曲は3回くりかえして再生することが前提につくられている。ふつうは3分間の曲をつくって1分間のワンコーラスだけ切り取ってCMに使うなりなんなりするわけだが、逆にCMのぶんだけつくったんで3倍しといてください、というわけだ。

 そういうわけで、『The Commercial Album』にはポップソング(とりわけアメリカのそれ)のステレオタイプ、とりわけフォーマットに対する批判が強くあらわれている。1分間のユニットを3回反復するというフォーマットさえまもればいいんだったら1分間だけつくっておくから。それを45分集めればアルバムになるでしょ。CMにも使いやすくていいよね。『The Commercial Album』というタイトルはコマーシャル・フィルムのための楽曲集というニュアンスもあるだろうし、The Residentsがやり玉にあげるこうした形式がまさに商業上の要請(マスメディアとの絡み、反復によるポップミュージックの量産、などなど……)によって形成されたものだという皮肉でもあろう。「コマーシャル=商業的とは何か?」という問いに、キャッチーなメロディや親しみやすい進行ではなく、「マスメディアや企業との癒着と、反復的で量産可能な構成だ」と言っているわけだから。

 それに対してもはや45分だとか60分だとかいった制約もふりほどいて、ただ表現のひとつのリミットとして「1分間」を設定した『Whack World』は、形式的な類似性に反して、『The Commercial Album』と見事なまでの対照をなしているように思う。そもそもインスピレーション源となったInstagramというメディア自体がユーザージェネレーテッドなコンテンツを扱うもので、マスメディアや企業といった資本の要請にしたがって量産されるポップミュージック、という考え方がもはやかつてのように通用しなくなってきていることを示してもいる(また別の意味を担うようになった、というだけの話ではあるんだが、まあそれは別の話)。いまや「1分間」というフォーマットを決めているのは、受動的に振る舞う消費者=見物人に対してスペクタクルを供給しようとする巨大な資本ではなく、表現の場とコミュニケーションの可能性を渇望するユーザーの側なのだ。

 リリックの内容から言っても、『Whack World』の多くの楽曲が主題とする、確固たる自己像の確立とか、あるいは仲間や恋人との関係性なんていうのは、まさにSNS時代に生きる人びとに立ちはだかる課題を生々しく反映している。先述したような、「真似するなら自由に真似て、どんなに真似されたところで私は私だから」というタフな自己像はまた、ソーシャルネットワークとして顕現した他者という地獄のなかに放り込まれた市井の人びとへのロールモデルの提示としてユニークでもあるだろう。ここにおいて「1分間のポップソング」が持つ批評性は「スペクタクル化した社会への批判」から「SNS時代を『表現』を通じてサヴァイヴする方法の提示」へとスライドしている。重要なのは「私」と「社会」のあいだに「表現」というレイヤーが差し挟まれていることにもあると思うけれども、これについては稿を改めて考えたいと思う。