ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

日記 2018年10月28日(ひさしぶりだぜ、このフィーリング……!)

 Jesuなどを聴いてポストメタルおもしろい~状態に。Sun Kil Moonとのコラボ作がめちゃ好き。「こんな音楽があったらいいのに」はだいたいもうすでにとっくにやられまくってる説。そのなかで「新しい」を提示できる人はやっぱすごい。

 すごくポップなダンスバンドなのだが、いくらでもおしゃれになりそうなところで、なんだか微妙にかたくるしいグルーヴや、アタック感がやけに強調されたベースのサウンド、あるいはメロディの運び方がなんともいえない垢抜けなさを覚えて、しかしそれがやけにかっこいい。

http://fnmnl.tv/2018/10/28/61394fnmnl.tv

 このフェス、別件で高岡さんとやりとりしてるときにちょっと話を聴いていたのだけれど、やはり凄いインパクト。アメリカという国が持つ強烈な文化改変の磁場を感じる、しかもその磁場を成立させている条件はだいたい「国土がでかい」のような気がする。国土がでかいのででかい場所ででかい音でマスを踊らせる音楽が生まれる。ラスベガスやバーニングマンもそうだけど、なんもないところに突然人類史スケールの「テーマパーク=まがいもの」をつくる、というのはアメリカの建国自体がそういうものだったというところがあって、かなりアメリカ的だ。原風景の欠如、あるいは欠如としての「荒野」という原風景、それが実はラディカルな福音派の進化論否定やID論普及にまで通じるアメリカの一本筋(歴史に対する感性のありかたというか)というのはまあありがちなまとめ方で批判もあるだろうが、わかりやすい図式ではある。ちなみExcision、けっこう好きです。ULTRA JAPANに行ったときも一日で何回か流れてたと思う。

 結構睡眠をとったはずなのに朝からなんだかだるさがとれず、喉も痛いのでまた風邪になりかけか…… と思いつつほっぽってたら午後2時をまわって本格的にしんどくなり。滋養強壮をつけなければ、とひっぱりうどんを食べてしょうが紅茶を飲んでゆっくりする。ここ数日で原稿をまとめて終わらせたので気が緩んでしまったようだ。調子悪いのは、ここ数日薬を飲み忘れることが多いせいもあるだろうか。ある種の離脱っぽい抑うつとかが出てきて「ひさしぶりだぜ、このフィーリング……!」となった。なっている場合ではないのだが。

ボルヘス・エッセイ集 (平凡社ライブラリー)

ボルヘス・エッセイ集 (平凡社ライブラリー)

 平凡社ライブラリーから出ているボルヘスが書いたエッセイのアンソロジーを読んでいて、ボルヘスのある種の作品群がかなり実存的な問題に迫ろうとしていることにいまごろ気づいた。フィクションの戯れとしてなんとなく表層で楽しんでいたのだけれど。「記憶の人フネス」と「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」は経験の同一性をめぐる思索として一本の線で結びうるし、また「他者」は経験の同一性によって歴史が撹乱され、私の同一性もまたゆらいでしまう様を描いているように思える。「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」や「砂の本」は、時間や歴史の概念を捨てたあとに私たちの世界へのまなざしにどのような変化が起こりうるか、またその世界がいかに恐怖をかきたてるかを示してもいる、ような。

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

砂の本 (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)

砂の本 (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)

realsound.jp

realsound.jp

 くろそーさんのバ美肉論、男性が「女声」を獲得するプロセスに着目することで、重要なのはアヴァターの造形という記号ではなく「声」という身体なのだ、というのは面白い。経験的に体系化されてきた萌え絵の記号はある種のテクストのように任意に分節して批評することが可能だが(「乳袋」とか「露出の多寡」、あるいはポージングなど)、メディア上に飛び交う声のなかに埋め込まれた身体性をいかに論じるかの方法はあまり見えてこない。そんななかでとても意義深い論考で、これがRealSoundみたいなある程度カジュアルなネットメディアで書かれたのはいいことやと思う。萌え絵の体系に見出されるセクシズムを批判的に検討する仕事が求められる一方で、おそらく今後よりいっそう進んでいくであろう「声」という身体をめぐるジェンダー表象(表象といっていいのかわからないが)に対する議論の可能性も感じられる。

 昨日の若おかみ評で自分の境遇を自虐した点について、そういう自虐をレトリックとして使っていくことの是非に関する問題提起があったので簡単に応答すると、たしかにそうだよなあと思った。あの文章の裏返しとして、自立しないこと、経済のサイクルに参入しないことによって損じられる自己肯定感ってものすごいっすよね実際。結局就労すること、収入を得ることが現代において最も基礎的な自己実現の方法のひとつである(それゆえ就活が合理性を欠いた儀式めいているんだろうなと思う)ことは日々痛感するわけです。ただ生きてあること、それだけが人を人として肯定する条件であるということができれば、と思うからこそ、「若おかみ」の主人公であるおっこが自らのあまりに厳しい境遇を乗り越えて「大人」になるあのプロセスが結局は「就労」のモデルであるというのがきっつく感じられた。しかし果たしてそれをどれだけの人にわかってもらえるものかと考えるプレッシャーに負けると自虐が出てくるわけですな。むしろ違和感を表明するならそうした価値観におもねらず堂々とそれを言い切ったほうがいいというのは確かにそう。せめて自分くらいは自分を肯定しないといけない。