ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

東京日記(1)『寝ても覚めても』、『Audio Architecture』展、ゲンロン批評再生塾トーフビーツ回、など

 ひさしぶりの上京。あんまりひさしぶりでいつぶりか覚えていないくらい…… 3年、4年くらい? おもな目的は、展覧会をいくつかまわるのと、tofubeatsのゲンロン批評再生塾回(トーフの厚意による)。ついでとばかりに国会図書館での調べ物や取材の予定なども詰め込んで、結局一週間近くいることになった。

 到着してすぐ、渋谷シネクイントで『寝ても覚めても』を観る。山形では月末にならないと上映されないし、その日の夜に予定されていた批評再生塾に向けての予習も兼ねて。残念ながら前作『ハッピーアワー』を見る機会がこれまでになく、5時間の作品をいきなりソフトを買う勇気も出ずに未見のまま。だから正直、簡単なあらすじ以外はなんの前情報もなかった。原作も読んでいなかったし。ユリイカの特集は、トーフのインタビューだけ読んで、ほかは作品鑑賞後にとっておいてある。しかしこれが、あまりにもどストライクな映画だった。

 映画として、というよりも、僕は途中からずっと朝子に感情移入というか、他人ではないような気持ちを抱きはじめていたので、そのまま映画の流れに飲み込まれてしまった、というのが正しい。朝子は劇中でもなかなか内面を想像しづらく、むしろその周囲で彼女に翻弄される人びとのほうにこそ人間味をやけに感じてしまうようなつくりになっている印象があるんだけれど、彼女が節目節目に起こす行動や発言に、その都度直観的に「あ、これって」と自分の経験が呼び覚まされるのだ。だから、批評的な距離などとりようがなかった。「朝子は私だ」し、「この映画そのものが私だ」という感覚に囚われたし、いまもまだそのなかにいる。

 その後、『Audio Architecture』展をみる。これが件の展評案件なのでまた後日詳しく書くことになるけれど、ざっくり言うと、ちょっといただけないな、キュレーションがうまくいってないな、と思う部分がいろいろとあった。Corneliusの仕事の安定感はすごかったけどねぇ。「デザインあ」の経験も関係しているのだろうか。

 夕方、トーフと合流。三浦大知星野源に関する原稿や記事を読んでくれていたみたいで、ちょっと意見を交わす。J-POPの現場で走り続けんとしている人の生の声を聞けるのは面白い。その後、神野さん(関西ソーカル主宰、元tofubeatsエヴァンジェリスト、現上方落語評論家)とも落ち合って、いろいろと語らったのち、五反田のゲンロンカフェに向かった。関西ソーカルスクワッド(imdkm、神野)の襲撃である。

 あくまでトーフのはからいで同行・見学させていただいた立場なので、あまりコメントはさしはさまない。ただ、後日佐々木敦さんがツイートしていたように、音楽批評、とりわけポップスやダンス・ミュージック、ヒップホップの分野を語るときのボキャブラリーや肌感覚がなかなか共有されづらいということを痛感したところはある。こういうことをわざわざ自分で言うのもダサいんだけど、K-POPであるとか、あるいは三浦大知星野源なんかのレビューや分析で最近試みているのは、作る側と聴く側のボキャブラリーの差をうまく埋める、そんなテキストをもっと世の中に増やしたい、ということにほかならない。たとえばトーフが繰り返し言及していた「エディット感覚」という言葉にしても、それが具体的にどういう感覚なのか、そしてなぜその感覚がそれほど彼にとって重要なのか、をじゅうぶんに論じられる言葉はまだそれほど洗練されていない(その意味で例の「Jディラ本」の分析パートは野心的かつなかなかの成功を収めているのではなかろうか)。

 その後富士そばでそばをすすりながらあれこれと世知辛い話も交えながら談笑。トーフに新譜聴いてもらえていたみたいでよかった(買ってたのは通知きてたので知ってた)。夜は神野さんにとってもらっていた宿に入って、おわり。