ただの風邪。

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制度の忘却、権力の隠蔽――HINOMARU批判と五木田智央展評に対するバックラッシュ

RADWIMPSがリリースしたニューシングル カタルシス のカップリング曲"HINOMARU"が炎上した。 www.huffingtonpost.jp

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その顛末や具体的な内容は上の記事等を参照していただくとして、ここで詳しくは記さないが、作詞者の野田洋次郎が「謝罪」してなおその火種は尽きることなく、批判派・擁護派ともに議論がくすぶったままにある。私見では、"HINOMARU"をめぐる議論には、あたかも同曲がワールドカップの応援歌であるかのような前提で論じているものがあったりと、事実関係の認識ができていないものが多く、Twitterでの炎上の悪い面が丸出しになっている印象がある(ワールドカップの応援歌になっているのは、"HINOMARU"ではなくて表題曲の"カタルシスト"だ)。

さて他方、東京オペラシティアートギャラリーで開催されている五木田智央展に対する黒瀬陽平による展評が議論を呼んでいる。

ぼく自身は同展を実際に見ていないので、この評の正当性そのものをジャッジすることはできない。しかし、この評に対して寄せられた批判は、私見のかぎり、テクストそのものをきちんと読めていないものが多い。展評の要点は、美術館という機関が担うべき(商品価値に限らない)価値づけの役割を放棄したことにあって、つまるところ「展覧会としての成否」にあると思うのだけれど、その点に説得的な反証を提示している批判は見かけていない。

このふたつの事案は互いに無関係のように見えるかもしれないが、"HINOMARU"批判に対するバックラッシュも、五木田展評に対するバックラッシュも、同じような問題を抱えているように思う。本当に批判すべき諸制度や諸権力を、まるでなかったかのように無視してしまう傾向だ。具体的には、前者においては、国家という巧妙に構築された制度の人工性を無視して、愛国心を「自然な感情」として擁護しようとする傾向がそれであり、後者においては、美術館という権威が行使する権力(=キュレーション)に対する批判を「アーティスト vs. 批評家」という構図に矮小化しようとする傾向がそれだ。

国家も美術館も、それらが属する社会のスコープにおいては、それらなしで済ますことはできない制度であり権力である。単にその存在を忘却さえすれば、それらの制度や権力の抱える問題を無視できるような、そんな甘ったるい存在ではないのだ。あたかもそれらが自然で透明な存在であるかのように扱うのは、あまりにも危うい。国家の成り立ちを人間の自然な感情や本能と安直に結びつける発想は、排外主義やレイシズムを容易に引き寄せてしまうし、美術館という権威の担うべき役割を無視してしまうことは、アート・ワールドがそもそも抱えているマーケットの歪みを加速させる結果になるだろう。

だからこそ、国家をめぐるレトリックは批判的に吟味される必要があるし、美術館が行使する権力もその効用を批判的に検証される必要がある。にもかかわらず、SNSを中心に流通する昨今の言説は、こうした諸制度、諸権力に対する批判をかんたんにスルーし、議論のスコープを知ってか知らずか矮小化してしまう。その結果、"HINOMARU"批判にせよ、五木田展評にせよ、肝心の批判の対象が見失われ、「過敏なリベラルのクレーム」や「頭でっかちな批評家のいちゃもん」といった具合に片付けられてしまうのだ。

先日もカニエ・ウェスト批判の記事メンタルヘルスの問題に論じる際に言及した、マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』が警鐘を鳴らしていたのは、本来は非人称的な制度の問題として論じるべきものを、個人の自由意志に伴う責任の範囲のなかに押し込めてしまう傾向の危険性だった。制度に対する批判的思考が失われてしまえば、制度そのものが抱える問題は解決されないばかりか、むしろ問題は野放しになるほかない。その上、そのしわよせは、ぼくたち自身に向かってくる。

ぼくたちは自分たちの社会を成立させている制度に対する批判的な視点を失ってはいけない。というとまるで個人の責任をすべて社会や制度というマジックワードにおっかぶせているかのように受け取る人もいるかもしれない。しばしば左派寄りの意見によせられる批判だ。しかし、ゼロ年代のドットコム・バブルからテン年代ポスト・トゥルースの時代に至るまでのアーキテクチャー論の時代を経て、ぼくたちは個人間のコミュニケーションから創発する共同体というものがいかに信頼ならないかを痛感したのではなかったのか。個人の倫理に期待するのではなく、社会の構成員たちの合意に基づく、属人的ではない制度を構築し、その運用に目を光らせることが重要だと言いたいだけだ。そのために不可欠なのが、制度という抽象的な概念に対する批判的な視座だ、ということだ。