ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

絶対音感のアンビバレンス――宮崎謙一『絶対音感神話 科学で解き明かすほんとうの姿』

絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿 (DOJIN選書)

絶対音感神話: 科学で解き明かすほんとうの姿 (DOJIN選書)

 他人のものの見方や聞き方を見たり聞いたりすることはむずかしい、というかできない。まして彼彼女が比較的特殊な認知の枠組みを持っている場合には想像も追いつかない。聾唖者、視覚障害者、色覚異常共感覚などなど、そうした「他者」は枚挙に暇がない。加えて言えば、絶対音感なるものもそのささやかだが確かな例だと言える。ある音の音高を、基準となる他の音なしで聞きわけることができる能力だ。

 絶対音感を持つ人の聴取のありようを考えれば考えるほど、自分の頭の中ははてなだらけになる。彼彼女にとって音楽を聴くとはどういう体験なのか、そうした能力を持たない我々とはどのように違うのか。そんな疑問に、実証的な研究結果をもってどんどん答えてくれるのが、宮崎謙一著『絶対音感神話 科学で解き明かすほんとうの姿』だ。

 本書は、音響心理学的な観点から絶対音感とはなにかを探究していく。果たして絶対音感を通して音を聴くとはどういうことか、興味深い実験結果が次から次へとならんで飽きさせることがない。言ってしまえば淡々と先行研究の吟味と実験の報告が連なっていく地味な構成なのだが、ひとつひとつのトピックにいちいち驚きがあるのだ。

絶対音感は「音楽的」ではない

 本書全体をつらぬく著者の主張はかなり大胆で、驚くべきものだ。いわく、「絶対音感があまり音楽的とはいえない能力」であり、「へたをすると音楽にとって好ましくないように働くことさえある」(p.5)という。絶対音感は音楽を実践するうえで大きなアドバンテージとなる、という予断にまったく反する。けれどもその論理は明快で、音楽において重要なのは音楽を構成するそれぞれの音ごとのパラメーターではなくて、音同士の相対的な関係であるというのが大きな根拠になる。たとえば、旋律を一音一音切り離してしまったら意味がない。旋律は、ひとつらなりの音たち相互の関係性によって成立するのだ。

 楽理的に言っても、旋律・和声・調性といった音楽の基本的な要素を構成する上で、絶対的な音高が問題になることはあまりない、ということを思い起こして欲しい。旋律は移調されたとしてもそれを構成する音同士の音程が維持されている限り同じ旋律として聴くことができる。和声はしばしば度数表記という抽象化を経て、あらゆる調にアダプトできるよう記号化される。調性においてもまた重要なのは、与えられた音列における全音と半音の配列であって、絶対的な音高ではない。

 基準音なしに与えられた音の音高を聞き分ける絶対音感に対して、あらかじめ用意された基準音に対して音高を聞き分ける能力を相対音感と呼ぶ。演奏であれ聴取であれ作曲であれ、実践的に問題になるのは相対音感のほうではないのか、というのが著者の考えだ。

絶対音感相対音感は排他的か?

 しかし、絶対音感相対音感は果たして排他的なのか。絶対音感があるからといって、相対音感がないとは限らないではないか。という疑問を抱く人もいるだろう。その点を検証した第7章では、驚くべき結果が提示される。絶対音感を持つ人々の多くは、そうでない人々に比べて相対音感が十分に発達していない、というのだ。

 印象的なのは、2つの旋律の異同を答える簡単なテストの結果だ。このテストでは、最初にある旋律が提示され、次にその旋律がもう一度提示される。一度目の旋律の調は固定されているが、二度目の旋律の調は三種類。また、一部の音程が変えられている場合もある。調性は度外視し、旋律そのものの異同を聞き分けられるかどうかが問題になる。結果、絶対音感を持つグループは、絶対音感をもたないグループに比べて、移調された旋律の正答率が明らかに低かった。その差は10から15ポイントほどもある(pp.172-176)。無意識のうちに絶対音感を「すぐれた耳を持つ」ことと同義に捉えていると、この結果にはちょっとショックを受ける。

 他の実験を通してみても、絶対音感を持つ人々のあいだで、相対音感が十分発達していないことは明らかだ。もちろん、絶対音感を持ちながら、すぐれた相対音感を身につけている人もいる。問題は、絶対音感を重視するあまり、相対音感の訓練がおざなりになってしまう傾向があるということだ。本書が提示する結果を見る限り、絶対音感を身につけた人の多くは、相対音感をのばして身につけるよりもなんとしても絶対音感を使うことに固執してしまうようだ。

絶対音感のアンビバレンス

 絶対音感を持ちながら相対音感が発達していないということはつまり、旋律・和声・調性の認識に必要な能力が発達していない、ということだ。これは絶対音感が抱える大きな矛盾と言っていい。なぜか? それには、今日的な意味での絶対音感が成立する条件を考える必要がある。

 絶対音感を持つ人々は、特定の周波数前後の音を対応する音名にあてはめて聞き分けることができる。しかし、音名と周波数の対応関係は恣意的なものであって、A=440Hzという基準音さえもかならずしも絶対的なものではない。現代でさえAの値はオーケストラによって前後6~7Hz程度異なることがあるし、なんなら国際的に制定された基準音が存在しなかった19世紀以前には、調律は地域ごと、演奏ごと、楽器ごとに大幅に変わって当然のものだった。すなわち、19世紀以前には今日的な意味での絶対音感は存在しようがなかったのだ。

 そういうわけで、絶対音感とは、程度問題ではあるにせよ19世紀以降の音楽の合理化・国際化の産物であって、加えて西洋音楽の文脈に強く依存するものだ(なんつったって前提となっているのはドレミと平均律なのだから)。しかしながらその一方で、これまで見てきたように、絶対音感は、適切な教育を受けて相対音感をのばさない限り、近代西洋音楽の最も大きな枠組みである調性概念を身体化する障壁となりうる。

 では、西洋以外に目を向けるとどうなのか、といえば、本書に登場する中国で伝統楽器を専攻する音大生の例が挙げられるだろう。彼らの中には、絶対音感を持つ者が一切いなかった。西洋音楽を専攻する学生では、日本と中国の音大生における絶対音感の保持率には目を見張るものがあるだけに、この対比は興味深い。むしろ、伝統楽器を専攻する学生たちは、すぐれた相対音感を示したそうだ。

 絶対音感という能力の特殊性は、これによってより浮き彫りになるように思われる。近現代の西洋音楽に固有の特殊な能力でありながら、その西洋音楽の枠組みとは相容れない。絶対音感のおかれた立場は奇妙にねじれている。本書は、絶対音感をめぐる神話を相対化し、こうしたねじれを明るみに出す端緒として意義深いように思える。今後、より俯瞰した視点からの大規模な調査を望みたいところだ。