ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

「自分は政治の対象になっていない」とはどういうことか。

noahs-ark.click

 ぼくのりりっくのぼうよみ(以下、ぼくりり)のオウンドメディア、Noah’s Arkに掲載されたぼくりり×家入一真の対談を読んだ。評価経済の普及はどのような未来をもたらすか? についてはまあ諸説紛々あり、個人的にそこについて論じようということはあまりない。ただ、文中に出てくる「ファンクラブ型のクラウドファンディング」という話については、Paetronを例にして、前にブログの記事にした

 それ以前に僕が気になった、というかもう愕然としたのは、ぼくりりの以下の発言だった。

[…]ぼくは、あまり政治に興味がないんです。「自分は政治の対象になっていない」という感覚があって。国家の本質のひとつとして、税金などを通じた富の再分配があると思うんですが、現状、ぼくはみなさんのお陰で自立した生活ができていますし、そういう意味でも自分は政府が救うべき対象ではないと感じています。家庭ができたりしたら、また違うと思いますが。

 この言葉には心底驚いた。百歩譲ってぼくりりが「政治の対象」ではないとしよう。しかし、まがりなりにも国民主権を謳う国家に住まっている以上、権利上、誰しもが「政治の主体」ではあるはずなのだ。たしかに事実のうえでは、ぼくりりはまだ未成年で選挙権を得ていないが、政治にコミットするということは選挙権の有無とはまた別の問題だ。さらに言えば、彼は経済的に自立して納税もしているわけだけれど、そうした納めた税金がどのように使われるかに関してはまったくの無関心を決め込むのだろうか? 税金だけ納めておくから、勝手に使ってくれ、とでも言うのだろうか。

 また、「政治によって恩恵を受けていないから、政治に関わる必要がない」という考え方にはいくつもの問題が潜んでいる。第一にそれは、自身が享受している政治的な利益をまったく無視している。少なくとも日本人として安全に生活が送れている、という事実そのものがもろもろの政治的営為から得ている利益だと言える。第二にそれは、弱者救済を行うべきなのは弱者自身である、という自己責任論に(消極的に)関与している。「私は弱者ではないので、弱者救済には関心がない」という理屈で政治的主体としての自身の責任を放棄できるのならば、誰が弱者救済に対して責任を負うのだろうか。時の政権か、あるいは空虚な「国家」なる概念なのだろうか。

 もちろん、弱者の名を借りてかえって弱者の声をかきけしてしまうような、いらぬおせっかいをするべきではない、とは言えるだろう。しかし、声を上げられない者が声を上げられるようにするためには、誰かが後押ししてやる必要がある。

 ぼくりりが示す政治への無関心はそのまま貧困への無関心にオーヴァーラップする(なにしろわざわざ自身でイシューを再分配に限定しているのだから)。ウェブメディア・Cakesでの大谷ノブ彦と柴那典の対談に招かれたぼくりりは、次のような発言をして一部から批判を受けていた。

cakes.mu

ぼくりり ヒップホップって、その人の生き様がじかに反映するじゃないですか。だからいまの日本って本物のヒップホップがほぼ存在し得ないと思うんです。「ゲットーから成り上がって〜」みたいなのってあんまり成立しないし、現実にそぐわないので。 大谷 日本ならとりあえずメシは食えますもんね。
柴 撃たれないしね。
ぼくりり バイトして松屋でご飯食えるじゃないですか。それってアメリカの本当のゲットーからは想像できないというか。だからZORNさんの「洗濯物干すのもHIPHOP」みたいなカウンターとしての機能しかないというか。

 この発言は、そもそもヒップホップという文化に対する理解のあり方においても批判されたが、「日本にはアメリカのようなゲットーなど存在しない」というような、貧困に対する無理解という点においても批判を受けておかしくない。といって私が貧困問題のスペシャリストというつもりもないのだけれど、少なくないラッパーが貧困や暴力の連鎖の中から這い上がってきた経験を持つことくらいは知っている。彼らの姿を見てもなお、「私は弱者ではないので、弱者救済には関心がない」といえるのだろうか。

 結果的に、この対談は、毀誉褒貶のある家入一真という人の基本的には誠実な人となりが見えてくるものになっていたように思う。そしてまた、ぼくりりのようなスタンスで政治への無関心を決め込む人々が多いのならば、という想像をして、少し暗い気分にもなった。