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リリック・ヴィデオ、音と記号のあわい――環ROY“ことの次第”MVを見る

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なぎ

なぎ

 先月、4年ぶりのニューアルバム《なぎ》をリリースした環ROYの“ことの次第”のミュージック・ヴィデオが公開されていた。ざらざらとした手触りの画面のなかに、糸くずやあるいは微生物のような細長い物体が漂い、ふと言葉を結んでは解けていく非常にミニマルな作品だ。言ってみればこれは昨今すっかりありふれたリリック・ヴィデオの類とも受け取れるかもしれない。しかしこの作品はふつうリリック・ヴィデオが果たすべき機能とは違うなにかを見せている。

リリック・ヴィデオの機能

 世界で初めてのミュージック・ヴィデオ、と称される映像作品は多くあるが、そのひとつにBob Dylanによる“Subterranean Homesick Blues”(1965)がある。見てわかるとおり、この作品はリリック・ヴィデオの原型と言って良い。

 2000年代以降のリリック・ヴィデオとは制作背景も流通過程も異なるとは言え1、このヴィデオはリリック・ヴィデオが果たす役割を端的に示している。めくり捨てられる一枚一枚のカードは、立て板に水のように流れていくDylanの歌に打ち込まれた韻という楔を、視覚的に強調する。つまり、音声として流れ過ぎ去っていく歌を書かれた言葉として画面に定着させることで、その作用を露わにしようとするのだ。

 あるいはJusticeの“D.A.N.C.E.”(2007)では、歌が言葉となり、言葉がイメージとなることによって、ともすれば聞き流されてしまう歌詞の内容をヴィヴィッドに見る者に伝えようとする。ここでは、歌詞の持つ意味作用を定着させ、増幅させることがリリック・ヴィデオの果たすべき役割となっている。

 リリック・ヴィデオの普及が本格化する2010年以降の諸作品においては、より単純に歌詞を画面に表示することに終始するものも少なくないとはいえ、基本的な役割は、歌という音声を書き言葉に翻訳することにあるといっていいだろう。それによって、視聴者は歌の意味についてより正確な理解を得る、というところだろうか。

歌の力と言葉の力

 しかし、問題はそこにある。僕たちは極めて安易にも、歌の力と言葉の力を混同してしまうのだ。

 歌詞として書き下された文章は、あくまで歌の骨格でしかない。Corneliusの“あなたがいるなら”レビューで書いたように、たとえテクストとしての歌詞を丸暗記していたとしても、歌のマジックはつねにそれらの言葉を驚きとともに聴く者に提示する。テクストとして書き下された歌詞の支えがない場合はなおさらだ。ちょっとしたノイズのように思えた掠れた声が歌の一部であったり、あるいはたんなるハミングかと思われるような声の流れがメロディによって引き伸ばされたひとつの言葉であったり、途切れたと思った言葉が再び線をなし意味を結び始めたり、そういった運動を歌詞は記録していない。

 環ROYが“ことの次第”で描き出すのは、歌と言葉のあいだに結ばれるこの微妙な距離と、そこに生まれる運動にほかならない。

鳴き声は整理され声に変わる/意味は時と場を僕らに与え/時と場は物語を紡いでる

 あるいは、

二つの拍 繋がりを持った/言葉は音楽へ変わった/そして音に戻り 時と場に融け/時と場は 物語を紡いでる

 これらのラインが物語る通り、音/声/言葉/意味/物語は、互いに融通無碍に絶え間なくその姿を変えていく。注意したいのは、この詞においては、音を最も低次として物語を頂点とするヒエラルキーが想定されているわけではない、という点だ。たとえば音はひととびに意味を成しうるし、物語は一瞬で音へと還ってゆく。フックに現れる五つの母音はそれを象徴しているかのようだ。この五つの母音は、音響的な処理をほどこされることによって、トラックを構成する音のようにも、遠くから響く物言わぬ声のようにも、あるいは「あいうえお」という現代の日本語話者には極めて馴染み深いひとつのシーケンスのようにも響く。

 そして、“ことの次第”のミュージック・ヴィデオがいわゆるリリック・ヴィデオと一線を画しているのは、歌詞を言葉として定着させるのではなく、まさにこの抽象的で曖昧な運動を視覚化している点にある。

幻視される言葉とその残像

 荒いかすれたノイズを含んだ8mmフィルムのようでもあり、それでいてブロックノイズの残る低解像度のMPGのようでもある映像の中に漂う、生命のようにも単なるブラウン運動のようにも見える白い粒子。ヴィデオ全体を通底するこのトーン自体が、グリッチ的かつ有機的な響きを持つ“ことの次第”のトラックに呼応している。画面じゅうを動き回るこれらの粒子はひものように伸び縮みしながら環ROYの発する言葉をトレースし、あるいは先回りして視覚化する。言葉をすべておいかけるでもなく、粒子の奔放な動きそのものが視覚的な快楽を満たしてくれる。

 粒子の微細な振動が像を結び、記号となり、散っていく。それは歌を視覚的な文字記号に還元してしまう通常のリリック・ヴィデオの機能とは反対に、ひとことひとことが明瞭に発せられる環ROYのラップを、トラックという音の渦のなかに融解させるかのように機能する。また、僕たちは、飛び交う粒子たちのなかに、言葉になる寸前の図像を幻視しもする。耳が捉えた音声イメージが画面に投影され、そこに存在したかどうかも定かではない言葉の姿を、不意に捉えてしまうのだ。

 このヴィデオを見、そして聴くという経験はきわめて錯綜した感覚を産む。あるときには、聞き取りそこなった言葉がイメージによって補完され、またあるときには、耳の中に飛び込んでくる言葉がイメージに投影され、目に焼き付いてしまった残像は、あたかもその言葉=イメージをしかと目にしたかのような錯覚を生じさせる。音/声/言葉/意味/物語という様々な状態を自在に横断するイメージ/音響。それはミュージック・ヴィデオがしばしば目指す共感覚的ヴィジョンの提示というよりも、音と記号とのあいだにたゆたい、ときに引き裂かれる「歌」の視覚化と言った方がいい。

ミュージック・ヴィデオの「共感覚的」な側面を進歩させた立役者は数多くあげられるだろうけれど、その筆頭は間違いなくミシェル・ゴンドリーだろう。

 こんなこと僕が言うまでもないことかもしれないが、“ことの次第”のミュージック・ヴィデオの、一見地味でミニマルな装いのなかに秘められた豊かな経験を、じっくりと味わって欲しいと思う。


  1. ありていにいえば、00年代以降、もっとわかりやすく言えばYouTube以降に普及したリリック・ヴィデオは、通常のミュージック・ヴィデオを撮影するよりも低コストに制作できる、便利なプロモーション手段という側面を持つ。しばしばリリック・ヴィデオは正式なミュージック・ヴィデオの公開に先駆けて披露される「つなぎ」の役割を担っていて、ソーシャルメディア上のバズを維持するために重宝されているのだ。