ただの風邪。

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「知性」と「道具」のあわいに――2つの「クリエイティヴなAI」プロジェクトについて

pitchfork.com

 Pitchforkが先日こんな記事を載せていた。曰く、「アンドロイドはエレキギターの夢を見るか? 音楽AIの未来を探る」。このタイトルを見て、ひとは似たような洒落を思いついてしまうものだな、と驚きつつ苦笑してしまった。昨年に僕が書いた音楽AIに関するブログ記事もまた、フィリップ・K・ディックをもじったタイトル*1だったからだ。

caughtacold.hatenablog.com

 ちょうど取り上げているプロジェクトも被っていて、GoogleによるクリエイティヴAIプロジェクトのMagentaと、Sonyによる作曲AIプロジェクトのFlow Machinesだ。僕が書いた記事では、作曲を機械に学習させるにあたって(菊地-大谷的な)「音楽の記号化」の問題があらためて問われることになるのではないか、ということを主に考察した。*2対してPitchforkの記事はよりジャーナリスティックで、現場で実際にプロジェクトに携わる人々の本音が垣間見えて非常に興味深いものになっている。

Magenta上に実装されたRNN(再帰ニューラルネットワーク)によって生成されたメロディ

Flow Machinesが作曲した「ビートルズ風」の楽曲、“Daddy’s Car”

 たとえば、Magentaのプロジェクト・リーダーであるDouglas EckはMagentaの現状を 「白熊が三輪車に乗る曲芸」 みたいなものとして、謙虚というか、シニカルかつプラクティカルに捉えている。つまり、出来上がったもののクオリティは決してそれ自体びっくりするようなものではない(どころかしょっぱい)けれど、なにしろやっているのは人間じゃなくてAIなんだよ。すごいすごーい! というわけだ。そしてこうも言う。「もしフランク・オーシャンがやってきて『Magentaとコラボしよう』と言ったとしても、僕は『まだ早いよ』と言うだろうね」。

 深層学習によって様々な楽器の音色を合成可能な“NSynth”にせよ、同記事の著者は「ダイアルやフェーダーをいじっているのは楽しいけれど、それは未来というよりも過去の経験に似ているように思えた」と語り、シンセやサンプラーをいじる喜びとどこが違うんだろうと率直な感想を残している。しかしMagentaの強みは、オープンソースのプロジェクトとして世界中のコーダーが自分なりの実験を繰り広げられる場を提供していることにほかならない。彼らはイノベーションの種を根気強く撒いて世話をしている段階と言えるかもしれない。

Magentaのプロジェクトに携わっているYotam Mannによる応用の例

 一方で、Flow Machinesは、著者が的確に例える通り、 「ある種のヴァーチャルなミュージシャン」 だ。Magentaと違って、Flow Machinesはあらかじめ大量のミュージカル・ナンバーやポップ・ソングのライブラリーを学習することで、「ビートルズ風」だの「ビッグバンドな感じ」だのといったいろいろな作風をたやすく作曲し、演奏して見せる。また、ミュージシャンが使いやすい対話的なインターフェイスを実装していることによって、AIをいちから実装しないといけないMagentaよりもずっと「実用的」になっている。かといって、Flow Machineのプロジェクト・リーダーであるFrançois Pachetもまた、思ったほどAIの力に楽観的ではない。

彼[Pachet]は、Flow Machineには「完璧に良い」曲を自力で生成するだけの能力があるけれども、ほんとうにユニークな曲はアーティストがそこにいてこそ生まれるものだと考えている。「音楽作品をつくるときには判断しないといけないことがとてもたくさんある」と彼は語る。「ただアーティストだけが、偉大な作品を生み出す判断をこなせるんだ」

 記事を通して伝わってくるのは、Magentaにせよ、それよりいくらか洗練されたFlow Machinesにせよ、求めているのは 「ミュージシャンがどんな創造的な使い方をしてくれるか」 というその可能性に尽きる。Eckがドラムマシーンをひきあいに出して語るように、テクノロジーから本物の魔法が飛び出してくるのは、それが予想だにしない使われ方をしたときなのだ。その意味で、「現状のAIはまだ(そしてAIの未来もまた)道具にすぎない」といったEckやPachetの控えめな態度は、クリエイティヴとテクノロジーとのあいだの適切な距離感を保っている。

 しかし興味深いのは、Flow Machinesのプロジェクトに參加し、実際にFlow Machinesと一緒に作曲や演奏を行っているBenoît Carrésの言葉だ。Carrésが語る“Mr.Shadow”の作曲プロセスは不思議に満ちている。もとになったメロディは、Flow Machinesがはじき出した数多のメロディのうちのひとつでしかないが、それがCarrésの心を不思議に捉えた。しかも、単にメロディの美しさに惹かれただけではないという。

「まるでシンガーの魂のとりこになったようでした。」と彼[Carrés]は語る。「 私が受け取ったのは、歌詞を通して物語を伝えるような声ではなかった。私は感情を、スタイルを、歌い方を――つまりこのシンガーの持つエッセンスを受け取ったのです。 私にとってはそこがこの道具の一番興味深いところです。音楽を聴くという行為の意味をつくりかえてしまうんです。言葉はぜんぶ理解できなくても、フィーリングは捉えられる、そんな子どもに戻ったかのように。新しい種類の歌ですよ。」*3

Flow Machinesが作曲、Carrésが編曲を行った作品、“Mr.Shadow”

 Flow Machinesによる製作工程については以前の記事の冒頭で詳しく見たのでそちらを参照してほしいが、そのプロセス自体は対話的で洗練されたソフトウェアという印象以上のものではない。しかし、Carrésの言葉を読むと、それは単なる有能なアシスタントにとどまらず、むしろ ミュージシャンの無意識に眠るインスピレーションを具現化させてくれるメンター にさえ思えてくる。

Flow Machinesと一緒に演奏しているとき、私は自分の無意識やフィーリングとより強く繋がっていて、逆に心との繋がりは弱まります。[…]こうした道具を使ってつくる音楽は、自分のもっと深い部分へと私を導いてくれるし、あなたの持つ創造性の影の部分を探求する手助けをしてくれます。

 機械を通じて触発され、顕れる無意識――そう表現してみると、まるでそれはアンドレ・ブルトンのようなシュルレアリストの言葉のようでもあり、いっときはシュルレアリストたちの擁護者であったヴァルター・ベンヤミンの言葉のようでもある。*4しかしそれはたとえば、数多の革新的ポップ・ミュージックを生み出してきた「技術の進歩」や「機材の誤用」のマジックとも違うし、ラディカルな実験音楽にしばしばついてまわる「偶然性」や「不確定性」といった概念とも違うように思える。

 あくまでクールな態度を崩さないエンジニアたちとは対照的に、ミュージシャンはAIのなかに神秘的な力――人間の持つ創造力にとてもよく似たそれ――を見いだし、そのとりこにさえなっている。 僕たちはいつやってくるかもしれないシンギュラリティに思いを巡らすよりもむしろ、ミュージシャンがAIと育んでいるこの奇妙で親密な関係にこそ関心を向けるべきかもしれない。 なぜなら、おそらく今後十年ほどで僕たちの身の回りにはFlow Machinesのような仲間があふれかえるだろうからだ(もはや溢れかえっている、という言い方もできる)。

 専門家からすれば「知性未満」、しかし利用者からすれば「道具以上」……。そんな存在に囲まれた暮らしは、クリエイションは、どんな世界をつくる/つくっているのだろう?

*1:あえて言うまでもないが、アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))をもじった。そういえばブレードランナー2がもうじき公開ですね…

*2:菊地-大谷的、というのも、それがもっぱら両者の共著『憂鬱と官能を教えた学校――【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史 調律、調性および旋律・和声』(2004年)で提示されたテーゼに基いているからだ。すなわち、17-8世紀の平均律の誕生からはじまる音楽の記号化(というか記号の標準化といったほうがいいと思うが)が、20世紀にいわゆる「バークリーメソッド」というポップ・ミュージックとジャズに特化したより高度な記号化の爆発的な普及を経由して、最終的には1980年代のMIDIの誕生によって記号化が極北に達し、無効化した、という見立てだ。そういう事情もあって、どちらかといえば抽象的な話になってしまったきらいがあるが、2つのAIの根本的な発想の違いについてはPitchforkの記事と較べても遜色なく解説できていると思う。

*3:強調筆者

*4:ベンヤミンの名高い「視覚的無意識」を想起しよう。あるいはそれを、フリードリヒ・キットラーの大著『グラモフォン・フィルム・タイプライター』において繰り返されるフロイト-ラカン批判に重ね合わせてもよいだろう。厳格な技術決定論にのっとるキットラーは、精神分析という学の誕生はグラモフォン(ノイズをありのままに記録する録音技術)、フィルム(運動を記録する映画)、タイプライター(脱属人化されたテクスト)によって用意されたと主張し、フロイト-ラカンは本来技術があきらかにした無意識の領域を、理論と臨床の両面における技術の徹底的な排除によって精神分析家たちが(不当にも)独占したのだという。キットラーの技術決定論の正当性についてはさておくとしても、シュルレアリストのアーティストたちにしばしば見られる機械や技術への偏愛はその論にある程度の説得力を与えていると思う。

図説 写真小史 (ちくま学芸文庫)

図説 写真小史 (ちくま学芸文庫)

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈下〉 (ちくま学芸文庫)

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈下〉 (ちくま学芸文庫)