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都市と対峙する、あるいはカルピスの甘さ――小沢健二「流動体について」について(今更)

(6月3日改題)

(6月16日注記:加筆・修正・改題した文章を音楽文.comに投稿しました↓
 都市と実存、あるいはカルピスの甘さ – 小沢健二“流動体について”について
 論旨は一切変わっていませんが、言葉が足りなかった部分を足したりしているので、よろしければこちらを。)

流動体について

流動体について

 小沢健二の「流動体について」のフルMVが公開された。小沢健二の音楽に触れた人々の一世代か二世代は下である僕はさほど興味を抱かなかったのでCDも買わなかったしテレビ出演も見ることはなかった。ただぼんやりと曲の輪郭だけをおぼえていたにすぎなかった。この曲の歌詞についてはさんざん注釈が行われているうえ、もとより小沢健二の活動を熱心に追いかけていたわけではない僕がこれ以上何を語りうるかということについてはまったく自信がない。しかしなんとなくぼんやりと思ったことを書き下してみよう、というわけだ。

 まず第一に印象的なのはタブラらしいぽこぽことしたパーカッションが曲を通じてなり続けていることで、その低音は「流動体」のダイナミズムを彷彿とさせてあまりある。曲のカタルシスとは無関係に淡々と刻まれるゆるやかな低音が、“流動体について”という曲の足元に都市の蠢きが鳴り響いていることを示唆している。

 ところでこうしたパーカッションの導入、およびある種の「中年の危機」を思わせる詞の内容から、僕はTalking Headsの“Once in a Lifetime”といった名曲をどうしても“流動体について”と並べたくなってしまう。あるいはかつて“ぼくらが旅に出る理由”で小沢健二本人が引用したPaul Simonの“You Can Call Me Al”。どの曲の主人公もふとしたきっかけに「いまの自分」に疑問をいだき、「異なる人生」(あるいはその不可能性)に思いを馳せる。

しかし“Once in a Lifetime”の主人公がどうやら自分の意思よりも高次の存在――海底に流れ行く潮流――に飲み込まれていくのに対して、“流動体について”の主人公は折衷的な、というのは、決定論と自由意思とを折衷させたような結論にいきつく。すなわち――

神の手の中にあるのなら
その時々に出来ることは
宇宙の中で良いことを決意するくらいだろう

 と。こうした決定論と意思という対比は歌詞の他の部分にも出てくるように思う。「躍動する流動体~」とつづくパートは全体のうち二箇所あるけれど、そのうちひとつは「躍動する流動体 数学的 美的に炸裂する蜃気楼」であり、もうひとつは「躍動する流動体 文学的 素敵に炸裂する蜃気楼」だ。前者はある種の決定論――数学的、とはすなわちその系が演繹的・ジェネラティヴに展開してゆくことの謂であり、美とはすなわちその調和の謂であるとするなら――を示唆し、後者は逆に意思――文学的たるとは人の自由な想像力に基づくポエジーを発露させることであるなら――を示唆する。すなわち「流動体」=都市とは小沢健二にとって自律的に発展していく生態系(エコロジー)であると同時に、そこに暮らす人間が干渉することでいかようにも変化する対象でもあるわけだ。

 あるいはまた、これも議論を呼んだキーワードである「カルピス」。カルピスの甘さが主人公に不思議を、現状を問いかけたすぐあとに主人公は「だけど」あるいは「だから」と続け、「意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」と続ける。彼はカルピスに対してなにを反論しようとしているのか、あるいはカルピスになにを確信したのか。決定論と意思との対比から考えると、ぼくはすんなり理解できるように思える。ただし、前提として、このカルピスが「カルピスウォーター」ではなく「カルピス」である必要はあるのだが。

 その家のカルピスの濃さ――これほど単純かつ残酷な指標もないだろう。カルピスの濃さはその家の経済状況や教育方針、家族代々の好みその他諸々の前提条件によって、その家の者にとってはなかばアプリオリ*1に決定される。いくらでも自由な濃さを選べるようでいて、そのじつ選び取ったその濃さはその人の周辺環境が折り重なって形成されたテイストでしかない。この歌の主人公が「カルピスの甘さ」に決定的な問いを問われるのは、まさに彼が何気なく希釈した「カルピスの甘さ」こそが決定論――その諸変数は家柄、家庭環境、etc…である――と意思とのはざまに位置しているからだ。

 果たして「今の自分と違う自分」など存在しうるのだろうか。「間違いに気づかなかった」平行世界の自分は存在しうるのだろうか。たといそれが存在しているとして、「今の自分」が「今の自分」であるのはなぜか。「カルピスの甘さ」が問うのは、今の自分を今の自分たらしめているのが必然だったのか、意思だったのか、というきわめて実存的な問いだと思う。

 だから主人公はいささか性急にも「カルピスの甘さ」に「だけど」と反論する。この躍動する流動体はたしかにすべてを意思で制御できるような代物ではない、にせよ、「意思は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」のだと。彼の脳裏にはひょっとすると彼が暮らしたニューヨークにおける、1960年代末から70年代にかけての都市開発反対運動の残滓が響いているかもしれない。個人個人のちっぽけな運命など「カルピスの甘さ」程度の問題にしかないが、意思が言葉を、言葉が都市を変えることは充分にありうるし、それは実際にあったのだ。

 だから主人公はこの流動体を称えることをためらわない。その流動体がひとつの生態系であると同時に、人々が意思の力を発露させる場でもあるからだ。

無限の海は広く深く
でもそれほどの怖さはない
宇宙の中で良いことを
決意するときに

 決定論を半ば拒絶し、自由意志を受け入れた瞬間に訪れるのは、無限の諸可能性の海だ。自分のなしうるあらゆる生がリゾーム状に、時系列さえこんがらがってあちらこちらへと広がっていく。しかしすでにこの主人公にはこの無限の海を恐れるに足らない理由がある。それは流動体への信頼であり、「今の自分」が「今の自分」であることそのものの驚異であり、それがまた「未来」へと連なっていくことの確信である。

 さて、果たして彼の決意した「良いこと」はなんなのか、僕たちには推し量る材料さえ与えられていないが、少なくともそのひとつが「素晴らしいレコードを発売する」であって欲しい、と僕は思う。

Remain in Light

Remain in Light

GRACELAND 25TH ANNIVER

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*1:これをフーコーにならって「家庭的アプリオリ」と呼んでもいいだろう。ほかにもその例はたくさんある。目玉焼きになにをかけるか、とか。