ただの風邪。

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“post-truth”に反対する唯一の手段は。――tofubeats《FANTASY CLUB》をめぐって(B面)

以下の文は、特に何を言われたわけでもなく、先のレヴューに加えてもう一本レヴューを書いてみようかという思いつきから書いてみたものだ(なのでB面)。したがってよりはっちゃけているというか、僕のファンタジーが炸裂しているように思う。そのあたり、ご容赦いただきたい。

何がリアル/何がリアルじゃないか/そんなこと誰にわかるというか
(Tr.2 SHOPPING MALL)

2016年を覆った絶望にも似た状況にこの一曲は良かれ悪しかれ深く響いた。翌年には、この絶望さえ“post-truth”と名付けられるや否やそれ自体消費の対象となり陳腐化してしまい、挙句の果てには恥も外聞もなく嘘をつき、隙きあらば論敵をフェイク呼ばわりすることが政治そのものであるかのような世界が訪れることになる。たとえば一世紀後の作家たちはこのスラップスティックをもとにどんな荒唐無稽な物語を紡いでくれるだろうか。そんなことを想像するくらいしか救いはない。

そんなとき、tofubeatsがリリースしたのは、いわば「祈り」*1のアルバムだ。それはおそらくは宗教的献身を欠く故に、微妙な陰影をたたえてもいる。しかし2曲のチャント――この構成自体が原初的な「祈り」を思わせる――に導かれ、背中をぽんと押されるように終わるこのアルバムは、不思議にポジティヴな力を聴く者に与えてくれる。《First Album》や《POSITIVE》のようなサーヴィス精神旺盛なキャッチーさはなく、むしろ内省的とさえ言えるこのアルバムだけれど、一枚を聴き通したあとにもたらされるふとした身軽さは、もしかするとこれまでで一番明るく、暖かい印象を人に与えるかもしれない。

まるでそれは、tofubeatsの「祈り」が、僕たちにある種の「救い」*2を与えているかのようだ。

しかしtofubeatsの「祈り」は僕たちリスナーに向けられたものではない。ましてや理解を求めてすらいないのかもしれない。たしかに彼は表現者である以上ある程度の理解を求めてはいるだろう。しかしいまそのプライオリティは格段に低いのではないか。そう思える。たとえばそれは、彼の「祈り」のそのささやかさに見て取れる。彼は誰ともしれない「君」やあるいは自分自身に対しての、小さな、しかしかけがえようのない望みを歌詞のなかに織り込んでゆく。身近な人に喜んで欲しい(Tr.2 SHOPPINGMALL)、だとか、君とうまくいきたい(Tr.8 What You Got)、だとか、ラヴ・ソングにも満たないようなささやかな望み。しかし彼はそれを、僕のこの耳で聞く限りにおいて、心から願い、祈っている。

なに、たったそれだけのこと――そういいきってしまえばそうしてしまえるようなこのささやかな心の動きこそが彼にとっていま表現するに足る切実さを持っているのだろう。このアルバムが僕たちに「救い」にも似た軽みを与えてくれるのは、むしろそうしたささやかさに心を研ぎ澄ますことそのものの大切さを、身を挺して提示してくれているからなのではないだろうか。

単純な動きさえ/きっと何かの感情
(Tr.11 YUUKI)

ふとした単純な動きにさえ、なにかの感情を見出すこと。すなわち――ささいなことをささいなことと片付けずに、真摯に向き合うこと。「祈り」とか「救い」といった言葉のうさんくささにうんざりしてしまった人は、そう読みかえてもらってもさしつかえない。tofubeatsがこのアルバムで「祈り」の身振りを通じて伝えようとしていることとは、まさしく、この「祈り」の質、すなわち些細なものへの真摯さそのものであると僕は思う。

それはまた、“post-truth”と名付けられたいまを生きる僕たちに個人として残されたほとんど唯一とも思えるサヴァイヴの方法だ。factの積み重ねと、そこからtruthを生起させる諸々の手続きがなし崩しになって、なにものも信じがたくなったあとに残されるのは、ただ自分の身の回り、手の届く範囲に起こるさまざまなよしなしごとに対して、真摯であろうとすることくらいだ。それはときに内省となり、虚無感とごっちゃになった激情をも生み出すかもしれない(What You Gotの暴れまわるような“夜から朝までparty/窓開けたらめちゃsunny/何を得たのかわからない/取り出して並べてみたい”というラインのように)。しかしそれであれ、フェイクに身を投じてわけがわからなくなってしまうよりもずいぶんマシだと僕は思う。

つまり、tofubeatsがこのアルバムを通じて僕たちに与える「救い」は――そんなものが本当にあるとすれば、だが――その「祈り」から透けて見えるアティチュード、スタイルそのものなのである。たしかに彼はちょっと不安定で、知りたいことや知りたくないことに囲まれ、ショッピングモールを彷徨するひとりの人間にすぎないかもしれない。しかし彼の、些末な事象へ見せる真摯さ、それこそが数少ない今まさに信じうる正しさなのではないか。

「戰争に反對する唯一の手段は」と吉田健一は書く。「各自の生活を美しくして、それに執着することである。」と。実を言うと、この有名な文句に僕はどうも納得がいかなかった。エッセイをまるごと読んでみても腑に落ちなかった。美しさなどという怪しげな概念を平和への賭け金にしてしまうとは。しかし、tofubeatsのこのアルバムを聞いた僕は思わずこうひとりごちてしまった。――“post-truth”に反対する唯一の手段は。その手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである、と。大胆にパラフレーズさせてもらえば、ここでいう「美しくする」とは「ささいな細部まで気を配る」ことの謂であり、「それに執着する」ことだけが、あわよくばフェイクの世界へ足を掬おうと待ち構える世界へ抵抗する手段なのだ。

《FANTASY CLUB》でのtofubeatsの「祈り」は、その実践である。

*1:あくまでカッコつきの、特殊な意味での(あるいはなんの含みもない)「祈り」だ。後述

*2:これもまた大仰に思えるかもしれないが、後述する