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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

Corneliusの新曲、“あなたがいるなら”は現時点で彼の最高傑作だと思う

 いいからいっぺん聴いて。とひとこと言って終わらせてしまいたい。が、思ったことがいくらかあるので書く。ちなみに坂本慎太郎の詞についても触れるべきかと思ったけれど、ちょっとそこまで手を広げるのは手に余るために、詞そのものの良さというか凄さには本稿では触れない。坂本慎太郎の詞の凄さを言わずしてなにを言う、というような批判は甘んじてお受けします。

リズム→グルーヴ

 一聴してこれまでのCorneliusとちょっと違うな、と思わされるのは、持続の感覚だ。BPMはおおよそ64前後(アプリで手計測)。極端に遅く、キックとスネアが刻むビートも最初はきわめてシンプルだ。第一にはこの遅さとシンプルさが持続の感覚の根源だ。それが次第にハイハットやシェイカーによって体感速度を加速させ、そして減速させる。イーヴンな8ビートを示唆する拍裏のハイハットが二番目のAメロの後半からスウィングしはじめたかと思うと、ギターソロの入るブリッジ部分以降は16ビートに変貌していく。しかしそれでもキックとスネアは維持されているために、明確な持続感がもたらされる。この持続のなかに生まれる緩急が、うねりの感覚をつくりだす。

 持続、といえば、最初から最後まで鳴り続けるエレピの音色もそうだ。基本の4小節のパターンを繰り返し続けるこのエレピはほとんどドローンだ。そしてまた、このエレピにかけられたパンニングもその持続の上で速度を変えながらうねり続ける。

 Corneliusはこれまでポリリズミックなアプローチを(とりわけ《Point》以降)好んで用いてきた印象がある。たとえば《Point》に収録された“Point of View Point”ではギターとドラムのパターンが複雑に絡み合うことで小節の頭や拍裏、拍表の感覚がめまぐるしく変化していく。

 《Sensuous》ではそうした傾向がよりやわらかいテクスチャのなかで展開されている。

 パートごとに小節がまわりこみ、あるいは同じグリッド上で異なるリズムパターンが重なりあい、めまいを起こすようなサウンドスケープが繰り広げられる。リズム構造に関して言えばそれがこれまでのCorneliusだったと思う。

 それに対して今作は、あからさまなポリリズムではなく、むしろ先述した持続の感覚の上に積み重なる繊細なグルーヴを提示する。そのグルーヴが繰り出すうねりはこのうえなくエモーショナルだ。

解体→再構築

 持続の感覚はCorneliusならぬ小山田圭吾自身*1の歌にも感じられる。それはいわば、これまで解体の対象だった言葉たちが、あらたにひとつらなりの詞へと再構築されているかのようだ。《Point》以降、彼の歌はしばしば音節ごとに解体され、ひとつの声としてあたかもギターやドラムやシンセサイザといった数ある素材と並列に存在しているかのようだった。たとえば《Sensuous》からのシングル“Music”のサビでは「We Need Music」というフレーズが「うぃー」という音と「にー(ど)」という音に解体され、ハーモニーを奏でている。平歌も節単位で細切れとなり、絡み合うリズムのなかに溶け込んでいる。

 あるいは同アルバムからの“Gum”はその実験が顕著で、ここでは言葉が音節単位にまで分解され過剰なエディットを施されている。

 こうしたアプローチは彼がプロデュースを手掛けたsalyu × salyuでもフィーチャーされている。同プロジェクトは“あなたがいるなら”でも組んだ坂本慎太郎との仕事で、間違いなく“あなたがいるなら”へと繋がるものがあるのだろうけれど、言葉の解体の極みといった趣がある。

 そしてまた、こうしたアプローチに対して今作で小山田圭吾はあきらかに声ではなく歌をうたっている。たしかに日本語の自然なリズムから逸脱する奇妙な符割りは、一見なんということのない愛慕の歌にひとことひとこと驚きをもたらしている。けれども、Corneliussalyu × salyuでおなじみだった、エディットされた歌声がハーモニーを奏でるようなことはない*2。たったひとり、小山田圭吾がマイクの前で歌っているのだ。そこに断絶はない。ゆえに、このヴォーカルにも持続の感覚が宿っているのだ。

エディット→エモーション

 歌だけではない。《Point》以降のCorneliusの諸作品に特徴的な大胆なエディット*3感覚が後景に退いているのだ。ここで僕の言うエディット感覚というのはつまり、カットアップに近い切れ味の鋭い音の抜き差しや、デジタル性の強い静寂のことだ。その欠如もまた、持続の感覚を強調しているように思う。もちろん、ところどころ効果的に用いられている。イントロでのドラムの抜き差しや、時折かけられるリヴァーブなどにその片鱗はみられる。しかし、先述したようにヴォーカルにはあからさまなエディットは施されていない。多少補正されている可能性はあるが、以前のようにエディットすることそのものを強調するかのような素振りは見せない。

 その結果生まれているのはなにか? このうえなくエモーショナルで、聴くものの感情をゆさぶる効果だ。ポリリズミックな音の快楽に身を委ねるかわりに、繊細なグルーヴの変化によって詞の持つエモーションを倍加させてゆく。言葉を解体する実験に没頭するのではなく、その言葉のひとつひとつを驚きとともに提示する。そしてブリッジに挿入される小山田のギターソロの、なんという素晴らしさだろう。それはまるで歌のように雄弁で、これもまたエモーショナルな感動を呼び起こす。

 Corneliusの新曲、“あなたがいるなら”は現時点で彼の最高傑作だと思う。なぜならそれは、これまでに述べてきたように、小山田圭吾がこれまでに繰り返してきたアプローチが転回/展開し、「実験的」な装いをはなれて普遍的なポップ・ソングを生み出すに至った、その成果だからだ。

*1:あくまでCorneliusバンド名で小山田圭吾はそのメンバー、というニュアンスです。混乱してるわけではありません。あしからず。

*2:若干追記しましたが、ハモりがないのではなく、分解された言葉がハモったり追い掛け合ったりしないってことです。

*3:そもそもこのエディット感覚はサンプリングを多用していた《Fantasma》以前のアプローチを換骨奪胎したものだとも言えるのだけれど。