ただの風邪。

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レビュー(音楽) レビュー(本) エッセイ、考えごと

渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』講談社現代新書、2013年

 最近、思うところがあって、詩を読んでみようと思っていた。しかしどこから手を付けてよいかわからない。日本の近現代詩を扱ったアンソロジーを手にとってみたりしたものの、いまいちぴんと来る出会いというものがない。どうしようかと思っていた折、手頃そうな、しかもけっこう最近出た現代詩の新書があったので、読んでみた。僕はこの著者の書き物を読んだことはない。少なくとも名前を見たのは初めてだった。

 中学校の現代文の授業で出会った詩にどうもときめかない、著者のそんな経験からこの本はひもとかれる。谷川俊太郎の『生きる』という詩だが、いっけんすると含蓄のある詩だが、なぜぴんと来ないのか。奇妙なことに、著者はだいたい時を同じくして、同じく谷川俊太郎の別の詩――『沈黙の部屋』という――に、こころをうたれ、何度も手で書き写すという経験をしていた。この差はどこにあるのか。それは、前者が読者の過去の経験を呼び覚ますタイプの詩で、後者がそうした経験の有無をあてにしない、「未来さえあれば読める詩」だからだ、という。ただそこにあることばに触れさえすれば、教養とか経験とかいったものを抜きにして、その世界に入り込んでしまうような詩。著者が心奪われ、そして詩の可能性を感じたのもそうした詩だったということだ。

 こういった具合に、この本はある詩と著者との個人的な出会いと、その出会いをめぐって考察される「現代詩とはなにか」「それにどう向き合うべきか」という問いへの答えから構成される。この詩はなにを意味していて、こういう技法が使われていて、時代背景はこうで… などということは、必要に応じて言及されこそすれ、本題ではないのだ。たとえば、詩においてある言葉を漢字にするか、ひらがなにひらくか、といった選択に関しては、次のようにとても実感のこもった言葉で解説される。

 この詩をくりかえしノートにうつしているとき、わたしはたびたび書きまちがえた。それは、漢字で書かれていることばと、ひらがなになっているところとをとりちがえて、無意識に書きかえてしまうのである。あとから見くらべてまちがいに気づき、こうした表記のつかいわけが非常に意識的になされていることを感じるのだった。

 著者は気に入った詩をしばしば書き写したというが、そうした経験があってこそ、根拠こそわからないにせよ、この詩にしかありえない言葉のひらきかたがあるのだ、ということが伝わってくる。

 きわめて個人史的に編まれたこの本は、それゆえに、きわめて誠実である。その主張のいくつかは少しナイーヴすぎるようにも思えるけれど――「現代詩のわからなさは効率主義の社会における癒やしである」といった主張とか、日本語特殊論といったもの――、詩人をそのナイーヴさゆえに責めるというのは一種倒錯のように思えてならない。それに、単なるナイーヴな詩人の言葉とは言い切れない鋭い洞察や切実な訴えがそこかしこに見られる。それがよりいっそう、この本を信頼してもよいかな、という気にさせる。紹介されている詩も面白いものばかりで、とりわけ安東次男の作品は他も読み込みたいと思えた。

 良い本でした。