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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

「ヒップホップ」の終わり――大和田俊之、磯部涼、吉田雅史『ラップは何を映しているのか――「日本語ラップ」から「トランプ後の世界」まで』毎日新聞出版、2017年

 音楽と政治は常に微妙な関係を保ってきた。最近も、音楽に政治を持ち込むな、とか、あるいは音楽は本質的に政治的である、とか、そういった議論がSNSを賑わせる。SEALDsのコールがラップの文脈から評価されたり、BLM(Black Lives Matter)運動の広がりのおかげもあって、ヒップホップがそうした論争のなかに巻き込まれることもしばしばだ。すると、ヒップホップは公民権運動の子孫であり、政治的なメッセージを臆せず発してきた硬派な音楽なのだ! とか、いやいやもともとはパーティ・ラップが始まりなんだから政治性なんて後付だよ、なんて、ヒップホップのなかでもまたややこしい議論が繰り広げられることになる。『ラップは何を映しているのか』と題された本書はそうしたややこしさを真正面から受け止めるものだ。大和田・磯部・吉田の三者は、このややこしさを丁寧にときほぐしながら、ヒップホップの始まりから現在に至るまでを、鼎談ならではのテンポで調子良く読み解いてゆく。

 印象的なのは、いわゆるヒップホップと呼ばれるものはもはや過去のものになりつつある――少なくとも今のラッパーたちとは断絶しているという事実と、ヒップホップのある種のドグマが次第に解放されていっている様子だ。内省的な様子を強めていくアトランタを中心としたトラップシーンへの考察や、トランプ当選やBLM運動に対するラッパーたちの葛藤、あるいはファッションを通じてホモフォビアを乗り越えていくラッパーたちの姿は、歴史の断絶というネガティヴなトピックよりも、ヒップホップカルチャーそのものがより柔軟に変化しつつあることを示しているように思える。既に書名でわかるとおり、問題は「ヒップホップ」というヘヴィな歴史を背負った文化にではなく、歴史の重荷から解放されつつある、「ラップ」という表現手法にあるのだ。その意味で、本書の第二章が回顧的なテイストをたたえているのは必然なのだろう。

 日本にラップという表現が根付くまでを問題にした第三章もまた示唆に富む。ヒップホップとしての真正性(オーセンティシティ)と独自性(オリジナリティ)を、日本人がどのように獲得するか、あるいは獲得するべく歴史を叙述していくか…… という込み入った問題を扱いながら、よりグローバルな展開を見せる日本人ラッパーたちの現在までを語っている。しかし、この章に関して言えば、次の磯部の指摘が最も重要であるように思えてならない。

磯辺 …日本のラップ・ミュージックが延々とアメリカの影の下でこじらせているというのは面白いことですよね。日本のポピュラー・ミュージックの中で唯一語るに足ると言えるほどの複雑さを持っている、とさえ思います。(201頁)

 文化的にも政治的にも、日本は徐々に、そしておそらく半ばは意識的に、「アメリカの影」を忘却しつつあるように思われる。そんななかでラップは唯一と言っていいほどに「本場」としてのアメリカが絶大な影響力を持つ音楽だと言っていい。ヒップホップという文化がラップ・ミュージックとしてグローバル化した今も、アメリカはトレンドの先端として存在感を放ち続けているからだ。おたく文化にせよロック・ミュージックにせよかつてはアメリカの影を色濃く意識しつづけた文化だった(少なくともそういう「語り」が多かった)にもかかわらず、気づけばそうした屈託を抱えた文化はもはやラップ・ミュージックくらいになってしまった。文化のガラパゴス化に対する磯部の苛立ちには深く共感してやまない。

 その一方で、日本の若いプレイヤーたちが持つ文化的・社会的背景の多様性に関する言及がもうちょっとあってもよかったのではないか、という思いもある。いや、そういう話についても紙幅は割かれているのだが、鼎談という性質上、総論的で話題の焦点が若干ぶれているように感じられたといったほうが正確かもしれない。この情報量をこのボリュームに詰め込めば、読めば誰しも自分なりに「ここをもうちょっと!」と思ってしまうわけで、それはもちろん高望みに過ぎず本書の瑕疵ではない。価格も手頃(1200円+税)だし、なんにせよヒップホップ/ラップ・ミュージックの今を総ざらいするのに最適な一冊であることに変わりはない。