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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

機械化された喉のヴィルトゥオーゾ:サイボーグ化するラッパーに関する試論(2)

(1)はこちら

caughtacold.hatenablog.com

オートチューンのテクスチャ:Futureにおけるオートチューンの使用から

 オートチューンの効果のひとつに、独特のテクスチャが声に与えられるという点が挙げられる。急激な音程の昇降をともなう節回しや、あるいはメリスマ的唱法を用いた際にあらわれるいわゆるケロケロ声のみならず、ピッチのゆらぎが抑えられることによってどこか人工的で、ぎらついた声色をまとうことになる。かつてT-Painに「オートチューンをきちんと使っていない」と揶揄されたFutureは2013年のインタヴューで次のように述べて、T-Painの世代におけるオートチューンの役割と自身のそれとの違いを強調している。

最初にオートチューンを使ったとき、おれは歌うために使ったわけじゃまったくないんだ。T-Painのようには使わなかった。おれはオートチューンをラップするために使ったんだよ、そうするとおれの声がぎらついて聴こえるから。いまじゃ誰も彼もオートチューンでラップしようとしている。
My Complex: Future Talks Auto-Tune, Dumbing Down Music, and Why He’s Not a Romantic | Complex(拙訳による。)

 重要なのは、たいした節回しのないゆったりとしたフロウにおいてもたしかにそのテクスチャを感じられるということだ。ここでオートチューンはラップを歌にするためにではなく、ラップにある特有のテクスチャを与えるために用いられている。

 大和田俊之、磯部涼、吉田雅史による鼎談本『ラップは何を映している――「日本語ラップ」から「トランプ後の世界」まで』(毎日新聞出版、2017年)において大和田はこうしたオートチューンの効果を次のように述べている。

[略]フューチャーをはじめとしてトラップの楽曲ではボーカルにオートチューンをかけることによって、ラップとトラックの境界線が曖昧になるんですね。(40頁)

 たしかにプラスティックでぎらついたオートチューン越しの声質はトラップの音像のなかによく溶け込んでいると言える。大和田がこの鼎談のために選曲したうちの一曲、Drake & Futureの“Jumpman”を聴いてみると、オートチューンをかけていないDrakeの声とFutureの声では、圧倒的に後者のほうがビートの質感と融合しており、その対比が印象的でもある。

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 しかしながら、トラックとラップだけではなく、ラップと歌声との対比から考えて見るとどうだろうか。大和田に応答する吉田のフロウがゆるく、遅くなることによってメロディアスになり、その結果としてオートチューンが用いられるようになる。という見立てはおそらく大筋からみてそう間違いではないのではないかと思う。しかしながら、Futureはオートチューンの特性を存分に活かすかのようなメロディアスな節回しをことさら用いることはない。むしろDrakeとの共演作(《What a Time to be Alive》, 2015)においては、淡々としたフロウのなかにひっそりと歌声を紛れ込ませるような微妙なオートチューン使いを見せてもいる。

 たとえば、冒頭の“Digital Dash”ではほとんど抑揚のないフロウを披露しているが、“You see why these niggas be hatin', ignorin', I’m goin' right in / I was born to get this money in this life of sin / I poured up before they got my dog on murder again”というラインではかすかにメロディラインが与えられ、オートチューンは即座にその歌声をアシストし、その素性をあきらかにしている。

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 あるいは2曲目、“Big Rings”においては、“Man, what a time to be alive / I’m drinkin' lean, they thought I died”というラインにおいてはオートチューンをふりきるかのように言葉を吐き捨てたかと思うと、ふたたび抑揚を抑えたフロウに戻る。この段階で既に興味深いのだが、続く“Niggas be droppin' subliminals, nigga / That just some jibber jabber / We take a Mellow Yellow then fill it with red forever-ever / These niggas so jelly, jealous / Man, these niggas get scared, they telli'-tellin'”というわらべうたのような韻を踏む箇所では、まさに子どもが歌を口ずさむかのようにささやかにメロディを取り入れ、またしてもオートチューンが前景化する。こうしたオートチューンの特質を利用した抑揚は、このコラボレーション作品のなかに特に一貫してみられる。

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 声のこうしたささやかな運動に反応して、オートチューンは独特のテクスチャを楽曲にまとわせている。それは決して同輩のラッパーが使うオートチューンほど派手なものではない。たとえばTravis Scottはよりメロディアスなフロウをオートチューンにのせ、いわゆる「ケロケロ声」を味わわせる部分が大きいように思う。しかしFutureのそれはいささか違う。それは例えるならば下塗りをしないカンヴァスに微妙なたわみをあたえ、カンヴァス全体にモアレを生じさせるかのような、些細でありつつもまったく全体的な緊張感である。*1ぎらついた単調さや「ケロケロ声」といったチージーなオートチューン像とは違う繊細な手触り。「ラップが歌声になる」のでもなく、「歌声がラップになる」のでもなく、どちらともつかない「なる」ことそのもののメタな力動が、オートチューンのぎらついたテクスチャにいっそうの深みを与えているのだ。

 まとめよう。Futureの用いるオートチューンは「ラップを歌にする」ためのものではなく、従ってましてや「ケロケロ声にする」ためのものでもない。それはラップと歌という二者のあいだに生まれる緊張関係をひとつの「模様」のように提示し*2、彼の声を唯一無二に響かせるための特殊効果なのである。T-PainはFutureのオートチューンを「正しく使っていない」と批判したが、これまでの考察をふまえるならば、Futureはオートチューンという喉の繊細な利用法をモノにしているというほかないだろう。DJ /Ruptureの言葉を改めてひけば、これこそまさにオートチューンの「サイボーグ的な受容」と言ってよい。

結論に代えて:サイボーグ化するラッパー

 ラップという表現形式が発達するにつれ、ラップと歌声の境界線はこれまでになく薄れてきた。R&Bの実質上のヒップホップ化、ないしそのサブジャンル化についてはさまざまな論者が指摘しており、ラップミュージックの「メロディのついたラップ」とR&Bの「ラップのような歌」はトラップミュージック全盛のいまもはや区別をすることはまったく意味をなさなくなった。そのとき、もはや着目すべきは声のテクスチャそのものであり、オートチューンは歌声/ラップ(地声)という退屈な二項対立のなかに第三の声を差し出す。

 しかし第三の声はなにもオートチューンによってのみもたらされるわけではない。それは単純にチップマンク声(Frank Oceanの“Nike”を想起すれば良い)かもしれないし、過剰なまでにディストーションを施された声(同様にKOHHの“Die Young”を想起せよ)かもしれない。ラッパーは数々のエフェクトと共に既にサイボーグ化している。もはやそこでは肉声のリアリティではなく、声のテクスチャに与えられた意味の次元におけるリアリティの判断(それはよくできたリアリティか? あるいはその虚構はどのようなリアリティを描いているのか?)こそが問題となる。注意したいのは、単にエフェクトをかけていることだけではなく、 どのようにそのエフェクトを乗りこなしているか 、という点が最も重要なフォーカスになるということだ。

 そもそもヒップホップ・プロパーでは決してない筆者がこの論考を書くに至ったきっかけは、Kanye Westの諸作を聴いたときに抱いた、なぜラッパーはオートチューンを通じてサイボーグ化しようとするのか? という問いだった。本論考がその答えになっているわけではないが、オオカミの遠吠えをもオートチューンにかけてしまうKanye West(《The Life of Pablo》収録の“Wolves”を参照)のある種の病理に突き動かされ、Futureの分析に至った。その過程でオートチューンという喉を使いこなすヴィルトゥオーゾが存在することに気付いた。

 しかし、そう考えてみればラッパーは、その原初からサイボーグであったのではないか? という思いもまた湧き上がってきたのだった。そもそもラッパーは轟音を発するサウンドシステムにマイクを通して乗りこなす、マイクのヴィルトゥオーゾではなかったか。MCに与えられたマイクロフォン・コントローラーというバクロニム(事後的に与えられた頭字語)は伊達ではない。はじめに拡声ありき、あらかじめラッパーの喉はマイクロフォンによってサイボーグ化されていたのではないか。

 だとすれば、オートチューンに飛びついていそいそと自らの喉をつくりかえていくラッパーたちの姿はなにも不可思議なものではない。ラッパーとはそもそもマイクロフォンによって喉を拡張したサイボーグであって、必要なソフトウェアのバージョンアップを行っているだけなのだ。

What A Time To Be Alive [Explicit]

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*1:カンヴァスやモアレという比喩から、ユリイカ2016年6月号所収の佐藤雄一による論考「なぜ貧しいリリックのKOHHをなんども聴いてしまうのか?」を連想される読者もいるだろう。佐藤はKOHHにおける言葉の執拗な反復が「模様」のように図と地を撹乱するダイナミズムを産んでいることを、クレーの絵画作品を例に論じている。しかし、言葉とトラックという対立項は分析に際して少し目の粗いものであるように感じられ、それが本論考のモチベーションのひとつ(声そのもののテクスチャを論じる)になっている。

*2:もちろんこの比喩は前掲の佐藤による論考を念頭においている。