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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

機械化された喉のヴィルトゥオーゾ:サイボーグ化するラッパーに関する試論(1)

あの新譜のオートチューンに意味はないのか?

あの新譜 auto-tune 意味なくかかっていた
tofubeats - SHOPPINGMALLより

 今ヒットチャートに登っているヒップホップ/R&Bのトラックにはほとんと必ずオートチューンのかかった歌声がフィーチャーされている。Cherのカムバックを飾り、Daft Punkのトレードマークとなったあの変調されたヴォーカルは、T-PainやLil' Wayneによるヒップホップ/R&Bへの大々的な導入を経て、ディレイやリヴァーブと同じくらいありふれた特殊効果になってしまった。一方で国内の事情に目を向けると、日本のヒップホップ界の最重要エンジニアのひとり、イリシット・ツボイ氏が言うには、今をきらめくT-PABLOWやYZERRを擁するBAD HOPの面々は、自らのヴォーカルに最低3段ものオートチューンを施したという。それでもまだ足りないのだそうだ。もはやここまでくると一種の強迫的ななにかの兆候にしか見えない。USの流行りだから、などという軽薄な理由で取り入れるだけではこれほどの執念は生まれないだろう。

 オートチューンの革命性については論をまたない。歌声の明瞭性や再現性に限界のあるヴォコーダー(とりわけ女性の声を再現することはその性質上難しいという)や、大音響を口腔内に直接響かせるゆえに利用者に著しい身体的負荷を強いるトークボックスとは異なって、オートチューンはいわゆる「ロボ声」をかつてない精度で、歌声の個性を損なうことなく、かつ容易に手に入れることができる。プラグインを差し込み、ピッチ補正のレヴェルを最大までぶち込めばあっという間にあの声が鳴り響く。Cherという女性シンガーの50歳を過ぎてのカムバックにあたってこの特殊効果がフィーチャーされたことは示唆に富むし、Romanthonyのどこか中性的な歌声はオートチューンなしにロボ声になりうることがなかったろう。T-Painのやわらかなハイトーン・ヴォイスだってそうだ。オートチューンは歌い手にとってあまりにも手軽でありながら、これまでにない声質の探求が可能となった夢の特殊効果なのだ。

 しかし、その流行には単なる新奇さ以上の文化的意義がなにかしら含意されているはずだ。DJ /RuptureことJace Claytonが北アフリカの土着的なポップスにおけるオートチューンの普及について、イスラム教の美学と「ロボ声」の奇妙だが説得力のある類似性を指摘したように。高くよく伸びる、誇張されたメリスマ。女性の声の美しさを強調すると同時に、その真の姿を特殊効果の奥に秘めてしまう誇示と隠蔽の緊張関係。それらすべてが、北アフリカイスラム教社会がおそらくは欧米のポップ・シーンに先駆けて著しいオートチューンの普及を目の当たりにした理由であるだろう。

 さて、tofubeatsの声を半ばのっとりながら、最初の問いに戻ってみよう。あの新譜のオートチューンに意味はないのだろうか?

オートチューンという第三の声

Lil Wayneはオートチューンを通したままでレコーディングする――処理されていないヴァージョンのヴォーカルは存在しないのだ。パワフルなコンピューターのおかげで、レコーディング・セッションのあとであらゆる種類のエフェクトをヴォーカルに試してみることができるような時代に、直接オートチューンをとおしてレコーディングするということは、オートチューンに完全に身を捧げるということだ。もはや、「裸の(naked)」オリジナル・ヴァージョンは存在しない。これは、サイボーグ的な受容だ。
Pitch Perfect | Frieze拙訳 による。)

 Jace ClaytonがLil Wayneの逸話をひきながら指摘するように、オートチューンの現場はもはやポスト・プロダクションではない。それはむしろ、人体の器官を拡張する想像的な代替器官であると言ってよい。T-Painもまた、同様の指摘をしている。

多くの人はオートチューンを使って歌おうとしない。ただ歌った後にオートチューンをかけるんだよ。そりゃひどい間違いだ。オートチューンは使い出せるようになるまでいろいろと学ぶべきことがあるんだ、なにせ扱いの難しいものだからね。
T-Pain: Future Is Not Using Auto-Tune Correctly(拙訳による。)

 自らキーボードなりギターなりを演奏する必要のあるヴォコーダートークボックスとは異なり、ライヴでオートチューンを用いるということは、あるキーに調律された喉そのものを手に入れるようなものだ。演奏時にはあえて自分の声を封じなければならないトークボックスとは、その意味でまったく反対だと言えるだろう。オートチューンをかけっぱなしにしてしまえば、曲間のMCでさえもメロディとなる。

 しかし、注意しておきたいことがある。これを「オートチューンはあらゆる声を歌にしてしまう」と言ってしまうのは簡単だ。とはいえ、「オートチューンはあらゆる声を歌声にしてしまう」という極論を採用した瞬間、オートチューンはポップ・ソングの人工性の極北をしめすアイコンとして、一挙に陳腐化してしまうだろう。たしかにそれは赤ん坊の鳴き声さえも歌声にしてしまい、虫の声も獣の声も歌声にしてしまう。しかしT-Painが言うように、それを正しく使うためには相応の修練が必要なのだ。オートチューンは人間の喉の拡張として、少なくともあるべき使いこなし方が存在するのだ。したがって、筆者は次のように提案したい。 オートチューンは語り(=ラップ)と歌声という使い古された二項対立に差し出された第三の声 であり、ラッパーがこの特殊効果に熱狂するのはまさしくこの 第三項としてのオートチューンが彼らの声による表現の可能性を劇的に広げてくれるからである、と。

 いずれにせよ、オートチューンがもてはやされるようになって20年近くが経とうとしている今、オートチューンがゲート・リヴァーブのような時代の徒花として散ってしまわなかったことの意義を考えるべきである。ダブにおけるディレイ、ロックにおけるディストーション/オーヴァードライヴと同様に、いまだオートチューンは人々の心を捉えて離さない。それはマンネリズムによるものなのか、あるいはオートチューンの「洗練」によるものなのか。本論では、後者の可能性にかけて、ささやかながら具体的な分析を行ってみたいと思う。題材とするのは、シェール/ダフト・パンクを第一世代、T-Painを第二世代とするならばオートチューン第三世代に相当する(と筆者が考えているだけなのだが)、Futureである。より具体的には、筆者がオートチューンの産む独特なテクスチャを最初に感じたDrakeとの共作を取り上げる。そこから、いわゆるチージーなイメージのオートチューンとは異なるオートチューン像を浮き彫りにしたい。【続く】

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