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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

レトリックと含蓄

 Twitterを眺めていると、こんなツイートが流れてきた。botからだ。

 言うまでもないが、陳腐だ。botだからもともとどういう文脈でどのようにしてこの言葉が生まれたのか知るよしもない。ただこの言葉とそれをEXILEのATSUSHIが言ったという事実だけがあり、しかしそれだけでこの言葉が機能するには充分ではある。ATSUSHIというEXILEのベテランパフォーマーが言うならば、なんとなく説得力があるような気がする。ファンにとってはなおさらだろう。

 しかし、強さと優しさを兼ね備えるべし、という趣旨の格言といえば、フィリップ・マーロウの吐く「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」を思い出す。僕はレイモンド・チャンドラーを一行も読んだことはないが、名言集の類で見かけてなんとなく記憶に残っていた。名言というのは得てしてそんなものだろう。そうして脳内にこびりついた名言が存外人生を決定してしまうこともある。

 閑話休題。たとえばこのふたつの言葉を比べてみよう。言わんとすることはだいたい同じである(繰り返すが、「強さと優しさを兼ね備えるべし」、だ)。後者のほうがより含蓄があるように思われるのはなぜだろうか。文字数が多いからだろうか。洒落た言い回しをしているからだろうか。

 端的に言えばそれは、言葉のなかに畳み込まれている情報の多さによる。

 ATSUSHIの言葉の説得力は、先述したように彼のキャラクターに依存している。なにも知らない人がただこの文を見て「なるほど含蓄があるなぁ」と思うだろうか。しかし、いかにも男性的で色気もあるキャラクターを背景にすると、なんとなく説得されてしまう。言葉自体には大した情報は畳み込まれていない。むしろそれは開かれている。

 対して、マーロウの言葉は、マーロウというキャラクターをまるで知らなくとも、いかにも説得的であるように感じられる。じっさい僕はフィリップ・マーロウのなんたるかをまるで知らないのだ。そこでこの名言を解きほぐしてみると、なぜ「強さと優しさはセット」でなければならないのかまでを簡潔に言い表していることがわかる。すなわち、強さは生き抜くための条件であり、優しさは生きる資格を得るための条件であって、どちらかを欠けば生き抜けないか、生きる資格を失うかしてしまう。故に両者を兼ね備える必要がある、ということである。

 マーロウの言葉は、一瞥しただけでも、仮定法と対句というささやかなレトリックによって圧縮された情報がその周囲ににじみ出、あふれ、「名言っぽさ」をかもしだす。圧縮された情報を丁寧に展開してみると、それなりに説得的なロジックがそこに埋め込まれている。これをレトリックの力と言わずとしてなんと言おうか。

 ひるがえって、ATSUSHIの言葉が持つ説得力はレトリックによるものではない。これは優劣の問題ではなく、性質の違いにすぎない、ということはあえて強調しておきたいが、少なくとも、この言葉だけをATSUSHIというキャラクターから引き離してなお含蓄のあるかどうか、ということを考えればその意味はわかってもらえると思う。