ただの風邪。

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音楽を頼りに、インターネット時代の「辺境」を辿る――Jace Clayton, "Uproot: Travels in 21st-Century Music and Digital Culture" (FSG Originals, 2016)

Uproot: Travels in 21st-Century Music and Digital Culture

Uproot: Travels in 21st-Century Music and Digital Culture

 Jace Claytonというアーティストの講演をYouTubeで見たとき、その出で立ちのあまりのスマートさに、彼こそがDJ /ruptureなのだと知ったときには度肝を抜かれてしまった。ブレイクコアという特異なシーンを通して彼のDJを知っていたから、余計にそう思ったのかもしれない。

 低く澄んだ声も澱みない語り口も、まるでTEDのプレゼンターみたいだ。そして、講演の内容もまた、抜群に面白かった(それについては記事を以前書いている)。彼がはじめての著作を出版したというからいてもたってもいられずに読んでみたら、これもまた、とんでもなく面白い代物だった。その内容の多くは、いまや話題のノンフィクション『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』(スティーヴン・ウィット著、関美和訳、早川書房)に示し合わせたかのように呼応していて、またそこからこぼれ落ちる様々な論点をすくい上げてもいる。300頁近いボリュームのなかで扱われている話題は多岐に渡るけれど、どの頁を繰ってもDJとして、そしてなにより音楽を愛する人間としての深い洞察と信念に満ちた文章に出会うことができる。

 音楽とテクノロジー、そして世界各地のヴァナキュラーな文化。彼が関心を寄せるのはいつも、これら3つが交差する地点だ。

 たとえば、ある一章はこんなトピックを中心に編まれている。「なぜオートチューンはモロッコのベルベル人たちから熱烈に愛されているのか?」――最先端のヴォーカル・プロセシング・ソフトと北アフリカ民族音楽との、一見すると奇妙な出会い。しかし、ベルベル人のミュージシャンたちと触れ合ううちに、Claytonはその文化的背景を理解していく。彼らにとって、オートチューンを通した女性の歌声は、フューチャリスティックなギミックでは決して無い。それはイスラム世界において範とされる女性像を具現化するものであり、むしろ伝統に奉仕するものでさえあるのだ。

 Claytonは、まるで民俗学者のように注意深くその音楽を聴き、人々と対話する。それは辺境の新奇な音楽をつまみ食いする「ワールド・ミュージック」的なマーケティング主義とはまったく位相を異にしている。また別の一章は、メキシコ北部の都市で生まれたTribal(トリーボール)と呼ばれるダンスミュージックに関するレポートに割かれているが、メキシコの伝統音楽とエレクトリックミュージックが混じり合うカオティックなシーンの姿は、メキシコに関するありきたりなナラティヴをすべて押しのけるような活気に満ちている。

 音楽の話題やテックギークを喜ばせるソフトウェアの話題(FruityLoopsとか、Seratoとか…)にも事欠かない本書だが、それぞれのトピックを織りなすエピソードの数々は、それ自体が良質の紀行文だ。モロッコの山岳地帯やジャマイカのブロック・パーティ、エジプトの埃っぽい路地、あるいはパレスチナの難民キャンプ。Claytonは音楽に導かれ、こうした場所を訪ね歩いてゆく。その場所で過ごした濃密な時間は、ときにエキゾチックな憧憬をたたえて、ときに奇妙な居心地の悪さも伴って描き出される。気まぐれに少し引用してみよう。

 交通状況にもよるが、「マーラガナ」の生まれた場所は首都[カイロ]から30分から一時間ほど離れた某所、アル・サラームという名前のごちゃごちゃとした衛星都市のなかにある。そこで僕はアーメッド・ファリド、またの名をDJ Figoと落ち合った。彼は仲間たちと一緒にオープンエアのカフェでアニスティーを啜っていた。Figoと友人たちは健康的な顔つきで自信に溢れていて、カイロのストリートの洒落者とアメリカのヒップホップ・スタイルを融合させたような派手な服を合わせていた。カフェの他の客はそれに比べるとくすんで見えた。年老いた男たちはタバコやときにはシーシャ(水タバコ)をふかして時間を潰していて、彼らの顔は地平線を向いていたが、途切れることのない住居の連なりがそれに立ちはだかっていた。セメントと砂にまみれた郊外の街の、午前一時のこと。

Clayton, Jace. Uproot: Travels in 21st-Century Music and Digital Culture (Kindle Locations 1289-1296). Farrar, Straus and Giroux. Kindle Edition.

 あるいはもうひとつ。

 都市の風景は港の工業的な海岸地帯へとクロスフェイドし、そこから僕たちの乗ったタクシーは丘の上へとスウィッチバックした。道は上るに従って細くなり、街の熱気もやわらいでいった。ドラマチックなカーヴがベイルートの姿をちらちらと垣間見せてくれ、その姿は真昼の靄を通して交互ににじみ、輝いていた。この牧歌的な風景が丁度一週間後には煙の柱によって遮られてしまうことになろうとは誰が知っていただろうか。レバノンの治安関係幹部であるウィサーム・アル=ハサンが、自動車爆弾によって殺害されたのだ。こうした暴力事件がMa2too3aというスマートフォンアプリの売上を伸ばしている、タイヤを燃やす抗議活動やその他市民による暴動などの位置情報をリアルタイムにアップデートし通知してくれるものだ。このアプリは、ベイルートiTunesストアチャートに初登場一位になった。

(Kindle Locations 2745-2750).

 不安や貧困と隣り合わせの音楽の現場。そこは往々にして、高速通信網やコンピューターの普及の波は未だぎりぎり及んでいないが、誰もがスマホだけは持っているような、インターネット時代の「辺境」でもある。こうしたデジタル・ディバイドは「ワールド・ミュージック」による搾取の構図を未だにのさばらせている――とくにインターネットの普及以降に激化した、著名DJたちによるローカルなダンスミュージックの収集と紹介といった状況に、Claytonは「ワールド・ミュージック2.0」という名前を与える。ワールド・ミュージックの世界的な見本市であるWoMEXを見物したレポートは、その様子のあまりのグロテスクさに気分が悪くなるほどだ。

 ちょっとした絶望さえ覚えかねない「ワールド・ミュージック2.0」だが、それに対するClaytonの態度は明快だ。事態は悪いことばかりじゃない、ただ「もっと遠くに耳を傾け続けること、すぐ身近な音を追いかけること、スポットライトはお金の後を追うけれども、僕たちの耳は他のどこにだっていく自由があるということ(Kindle Locations 3259-3260)」を忘れてはいけない、そう説くのだ。

 一方でClaytonは、産業としての音楽に大した未来はないと、あっさり認めてしまう。彼がこれほど潔く割り切った考え方ができるのは、この本で彼がレポートしているような音楽の姿を目の当たりにしてきたからだろう。マネタイズされる以前から音楽はあり、マネタイズできなくなってからも音楽はありつづけるのだ。……という前提にたつならば、職業としてのミュージシャンを成立させるために、都合のいいリスナーを育てようなどと考えるべきではない。それは倒錯だからだ(曰く、「ミュージシャンは理想的なリスナーをあてにしてはいけない。むしろ、僕たちこそ理想的なリスナーになろうとするべきだ。(Kindle Location 3262)」)。

 通読すると、とかく食えないDJという職業を続けながら、これほどまでに硬い意思を貫き、明快に言語化までしてみせるClaytonの姿勢には、ちょっと尋常じゃない気迫も感じたりする。自主制作のカセットテープで触れた日本のノイズミュージック(ハナタラシ!)が活動の原点だと言う彼の反骨精神は、ある種人を勇気づけるところがあるかもしれない。

90年代風のDIYなアプローチには課題があったにせよ、ひとりの人間が状況を改善することは未だ可能だ。たとえそれが、エスタブリッシュされたインディーレーベルが無意味だと嘲笑うような小さいスケールであっても。 (Kindle Locations 3175-3176).

 この言葉が嘘だと思うなら、この本を読むことだ、としか言いようがない。

 ともあれ、やはりこの本の売りは話題の多様さ、その密度だ。それをさっくり体験できるよう、この本の特設ウェブサイトには、Claytonによるとても充実したリスニング・ガイドが用意されている。ここを覗いてみるだけでも、目が覚めるような音楽体験ができる。特に知識をひけらかしはしない彼だが、影響を受けた本の話もしていて参考になる。それにしても、こんな音楽に関する話がたくさん載ってる本、読んでみたくなんないっすか?