ただの風邪。

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デジタルオーディオとその幽霊たちについて――アルヴァン・ルチエからYouTubeまで

私はいま、あなたのいる部屋とは違う部屋のなかに座っています。私は自分の喋っている声の音を録音していて、これからその録音をこの部屋で何度も再生します。[その過程では]この部屋の共振周波数が強調され、私の発声のどのような面影も、もしかしたらリズムは例外かもしれませんが、やがて破壊されてしまいます。その時あなたが耳にすることになるのは、発声によって惹起された、この部屋のもつ自然な共振周波数です。私はこの行為を物理的な事実の例示ではなく、それよりもむしろ、私の発声に含まれるだろうあらゆる不規則さを均すための方法だと考えています。

 アルヴァン・ルチエが代表作《I Am Sitting in A Room》(1969/1981年)で鮮やかに示して見せたのは、録音という行為は時間のみならずその空間自体をも記録する、というごく単純な事実である。テープ上に録音されたルチエの声をその場でプレイバックし、再びテープへと記録する。そしてまたその声をプレイバックして…… このプロセスを執拗に反復すると、ルチエの声は、それ自身が予告する通り、ただほのかな抑揚だけを残して、鐘の音にも似た金属的な響きの中に消え去ってしまう。テープレコーダーは、ルチエのどもりがちな声に空間そのものの幽霊を憑依させる。

 このように、《I Am Sitting in A Room》は、聴取のあり方を規定している空間的なパラメーター群を磁気テープ上で可聴化する試みである、と言える。そこから一歩進んで、このような実験を行うことを考えてみる。ダビングできるダブルデッキを使って、まずデッキAに録音した自分の声をデッキBにダビングする。そうしてダビングした自分の声をデッキBからデッキAへと再びダビングする。以下同様。するとそこには恐らく、声を媒介として、テープレコーダーそのものの幽霊が現れるだろう。増幅回路の持つ周波数特性や回路内に生じる諸々のノイズが、声のアイデンティティを剥ぎ取って、かわりにそこに現前するのだ。

 それがポップスであれ、ミュジク・コンクレートであれ、ダブであれ、録音芸術は、このように複数の幽霊にとりつかれている。その幽霊たちは建築空間、磁気テープ、レコード、電子回路等々さまざまな出自を持ち、互いに異なる様々な次元に属してもいる。つまり作品の構造に内在している場合もあれば、たまたま技術的な制約によって紛れ込んでくる場合もある。この幽霊たちを手懐けようと躍起になるミュージシャンやエンジニアもいれば、しばしば多くのリスナーがそうであるように、一向にその存在に構うことなく、無意識下へと押し込めてしまう人もいる。

 デジタル・オーディオもまた例外ではない。とりわけそれが圧縮されたデジタルデータである場合には。

 たとえば、これまでにない高い圧縮率と圧倒的な音質によってデジタル・オーディオのデファクト・スタンダードになった、mp3。それを可能にしたのは、音響心理学的な知見に基づくアルゴリズムへ施された、ブランデンブルク博士をはじめとする開発者たちによる、徹底的なファイン・チューニングである。その顛末は、『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』(スティーヴン・ウィット著、関美和訳、早川書房)に詳しい。

 スザンヌ・ヴェガの“Tom's Diner”は、音楽好きのギークたちにとって特別な意味を持つ一曲として語り草になっていたが、それは同書にも記されているとおり、この曲がmp3のアルゴリズムをチューニングするリファレンスになっていたからだ(画像圧縮技術におけるレナ)のようなものだ)。 もちろんリファレンスに用いられたのは“Tom's Diner”だけではないけれど、とりわけ人間の声というニュアンスに富んだ音色を圧縮するにあたり、まず念頭におかれたのがこのアカペラだったことは確かだ。つまり、mp3はある意味で、この曲をいかに良く聴かせられるかを追求した産物とも言えるのだ。

 これを踏まえて、DJ /Ruptureとしても知られるJace Claytonは、著書『Uproot: Travels in 21st-Century Music and Digital Culture』で次のように述べる。

 聞こえてくるものだけが信じるに値する。そして僕たちが聴いているのは、ある小さな一部分においては、ブランデンブルクが僕たちにどんなふうに(スザンヌ・)ヴェガを聴いてほしかったか、なのだ。

[…] ブランデンブルクとそのチームがつくった音響心理モデルは、彼らがどのように聞いているかを表象するものだ。それは科学的かもしれないけれど、客観的とは言い難い。“Tom's Diner”は、聴くことは常に主観的なものだということ、そして、プログラマーたちがそんなことはありえないと思っているとしても、技術関係者のあいだにある社会的な先入観がソースコード自体に浸透していることを、僕たちに思い起こさせてくれる。[拙訳]

 mp3は圧縮率が高くなればなるほど、つまりビットレートが低くなればなるほど高音は鈍り、低音は芯の抜けた安っぽい音になる。それは、mp3の圧縮アルゴリズムが与えられた制限のなかで音声情報を取捨選択した結果だ。この結果は、確かに科学的な理論に基いて、幾多の試行錯誤を経てある程度の普遍性を約束された答えではある。しかし、同時にそれは、ソースコードに宿ったブランデンブルクたちの聴覚の幽霊でもある。

 ここに興味深い転換を見て取ることができる。というのも、ルチエが自身の声に憑依させたあの幽霊が、空間の持つ物理的な特性によって厳密に規定されるものであるのに対して、低ビットレートのmp3がそれ自身に憑依させる自らの幽霊は、理想化されたある聴取者(ここではブランデンブルクやその同僚たち)の主観によって規定されたものだからだ。この幽霊は声にではなくて耳に宿る。たとえば適当にリッピングされた128kbpsのmp3に慣らされた耳は、ある意味で、ブランデンブルクたちの幽霊に棲み着かれた耳なのだ。

 mp3の幽霊は、もはやある空間、ある回路、ある機材に固有の幽霊であることをやめて、もはや聴取の環境そのものと同化していると言ってよいだろう。アルゴリズムに侵食され、規定される聴取。デジタルオーディオ以後の聴取をそう思考することもできるだろう(もっとも、回線速度とマシンパワーの向上に伴って、mp3はその役割を次第に終えようとしてはいるのだが)。

 最後に、パトリック・リデルによって制作されたルチエへのオマージュ作品《I Am Sitting in A Video Room》(2010年)に触れて、文章を閉じよう。

 リデルは、カメラに向かって、ルチエの作品をもじったテクストを朗読する。そのビデオはYouTube上にアップロードされたのち、再びPCにダウンロードされる。このダウンロードしたファイルを再びアップロードして… 以下、1000回もこのプロセスが繰り返される。次第にけばけばしくもおぼろなイメージへと融解し、奇妙にかすれたスクラッチノイズのなかに埋もれていくリデルの姿と声は、2010年当時のYouTubeが動画の圧縮に用いていたアルゴリズムの幽霊を自らに憑依させ、現前させる。

 それらは見かけ上グリッチやデータモッシングによってもたらされる効果に類似しているかもしれない。けれども、破損した不完全なデータがもたらすエラーであるグリッチと、アルゴリズム再帰的な濫用が現前させるこの幽霊とはまったく性質が異なっている。前者が明らかにするのは、デジタルデータが本質的に持つ脆弱性――ごく細部の破壊がイメージの統一性を瓦解させる――であり、後者が明らかにするのは、アルゴリズムそのものに宿された、理想化された感性的な経験の似姿である。

 リデルがYouTube上でつくりだした不明瞭で空虚な像と音は、インターネット以後に時代に僕たちが何を見、何を聴きうるかを示すモデルであると同時に、何を見、何を聴くべきかを強いるディシプリンでもあるのだ(……少なくとも2010年当時において)。