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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

チャック・ベリーってなにが凄いんかな、と考えた話

 ロックンロールで一番誰が好きか、と言われたら、わりと迷わずチャック・ベリー、と答える。もともとロックンロールなんてチャック・ベリーくらいしかまともに知らない、ということもあるけれど、第一には、彼の音楽も詞もものすごい鋭さを持っているからだ。以前Rah Bandについて書いた記事でも言及したベリーの“Memphis, Tennessee”は最後のヴァースのどんでん返しに驚かされるし、泣く子も黙るクラッシック“Johnny B. Goode”や“Roll Over Beethoven”などで連発される韻と比喩の巧みさにはソングライターとしての彼の洗練された手つきを感じさせるものがある。また、まさしくギターの名手に違いないベリーが天才ギター少年の物語を紡ぐ前者も、「ベートーヴェンはいいからR&Bを、ロックンロールを聞かせてくれ!」と叫ぶ後者も、ロックンロールという音楽そのものに対する自己言及的な視線を感じさせて、マジでこの人ただもんじゃないっすよ、と叫びたくなる。

たとえば“Roll Over Beethoven”の最初のヴァースはこんなだ。

Well I'mma write a little letter
えーと、ちょっとした手紙を書かないといけないんだよ
I'm gonna mail it to my local DJ
地元のDJに送ってやるんだ
Yeah it's a jumping little record
イエー、飛び跳ねたくなるようなちっちゃなレコードを
I want my jockey to play
あのDJにかけてほしいんだ
Roll over Beethoven, I gotta hear it again today
ベートーヴェンはどうでもいいから、もう1回あれを聞かなきゃなんないんだ

 問題なのは最後の一行で、「ベートーヴェンは後回しにして、あの曲をもう1回聴きたいんだ!」とも読めるし、「“Roll Over Beethoven”っていう、あの曲をもう1回聴きたいんだ!」というふうにも読める。というのは深読みだろうか。想像せずにはいられない。この曲にドハマリした当時の若者たちはもしかして本当にこんなふうにリクエストをしなかったろうか。「ベートーヴェンなんてかけなくていいから、とにかくRoll Over Beethovenをかけてくれ!」と。

 とまあそんなわけで最近は2,3日にいっぺんはチャック・ベリーのアンソロジーを聴いている(毎日聴くほど勤勉な人間ではない)。真剣に歌詞まで読み込むということはわざわざしないが、やはりリトル・リチャードなんかのシャウトと比較するととても都会的な感触があって、興奮するというよりも、ただただ「かっけぇなぁ」と口に出してしまいそうになる。いくら何度も何度も聴いて、あるいは擦り切れるくらいに模倣されてきたとはいえ、例のあのイントロが始まると耳を奪われる。もはやあのイントロに驚きを覚える人も少ないかと思うけれど、改めて考えるとやっぱりヤバい。ヤッバいと思う。とりとめのない話になって恐縮だが、最後にちょっとその話をする。

 例のイントロをビル・ヘイリーの“Rock Around the Clock”など他のロックンロールの代表曲と比較してわかるのは、ビートがシャッフルしていないということだ。

 ベリー自身の曲にもシャッフルしたビートの楽曲は数多いけれども、やはりあのギター・リフがあれほどまでのインパクトを持ったのは、シャッフルを捨ててリジッドエイトビートへとポップミュージックのグルーヴを変えたことにあると思う。実際、初期の“Johnny B. Goode”の演奏を聴いていると、ベリーのギターはエイトビートなのにバックの演奏はシャッフルしていて、奇妙なグルーヴを感じさせるものになっている。後年、ロックンロール以降の世代がバッキングするようになってからの演奏は、リズム隊もベリーのギターも等しくエイトビートになっている。こうして比べると、1958年当時のベリーはひとりだけ未来から来ていたみたいに見えてしょうがない。

 しかも、ベリーは単にスウィングするグルーヴを捨て去っただけではなく、執拗なシンコペーションによって、シャッフルのグルーヴをエイトビートのグリッドのなかに換骨奪胎している。ちょっと詳しく見てみる。 f:id:tortoisetaughtus:20161027153129p:plain  上の画像はアラサーの手習いといった具合にあのイントロを採譜したもので、音程やキーの正確性のほどはわからない、という点をご容赦いただきたい。というか問題は音程じゃないので。見たとおり、基本的には八分音符をじゃかじゃか連発しているだけなのだが、アクセントの位置が拍子の表と裏を行ったり来たりしていることがわかると思う。しかも、最初の三音が三拍目の裏から始まっていることは、耳慣れたいまでは別になんてことないが、結構凄いことだと思う。もちろん弱拍から演奏が始まる楽曲なんてたくさんあるわけで、ロックンロールだとかオールディーズにも類例は数多ある。けれども、弱拍(しかも三拍目の裏)から始まって、そのうえ二小節のあいだリズムをキープするドラムもベースもなしにシンコペーションを繰り返すリフというのはさすがにないだろう。こうも思い切ったことをしてしまうと、なんなら、次のように聴こえた当時の人もいたんではないか。 f:id:tortoisetaughtus:20161027153209p:plain  要するに弱拍から「タタタ」と始まっている八分の六拍子ともとれる、ということだ。しかし三小節目でちょっと字余りになって、おかしいなと思っていると、四小節目の頭に「ドン!」とドラムのヒットが加わる。そこでようやくエイトビートが姿をあらわすわけだ。

 こうしてチャック・ベリーはシャッフルからエイトビートへと早々と移行しつつ、エイトビートのなかに変形されたシャッフルのグルーヴを注入する。これは大口なのでほら話くらいにとってほしいけれど、これ以降ポップミュージックのグルーヴの基準は、「どれだけ気持ちよくスウィングしているか」から「グリッドのなかに配置したビートをいかにシンコペートさせるか」に変わったと言っていいのではないか(菊地成孔大谷能生のコンビも異なる文脈からそうしたことに繰り返し言及していたと記憶している。というかそもそも「三拍目の裏から始まる」といえば、例のマイルス・デイヴィス“On the Corner”の分析がある)。すると必然的に導かれるのは、「それってファンクじゃねえの?」という話である。

 たとえばそれはJB'sのクライド・スタブルフィールドらファンクの名ドラマーが叩き出した数々のブレイクスを見るとわかる。それらは16ビートのグリッドのなかでドラムキットがどれだけ多彩なグルーヴを生み出すことができるのか、という見本市の様相を呈している。

 例えば言わずと知れたジェイムス・ブラウンの“Cold Sweat”を聴くと、バックビートのスネアが半拍後ろにずれ込むだけでこれほどスリリングなグルーヴが生まれるものか、と思ってしまう。もちろん、こうした技術そのものはパーカッショニストやドラマーをはじめとした演奏者にとっては当然必須のスキルであったろうし、シンコペーションというものも、クラッシックやジャズ、ポップスなどあらゆる音楽でありふれた技法である。しかし、問題にしたいのは、こうしたファンクの美学がジャンルを横断し、いまやポップミュージックの隅々にまで浸透している、という点だ。日頃当たり前のように流れてくる「ファンキー」なサウンドの原点はここにある。

 その大前提をつくったのが、チャック・ベリーのあのリフだったのではないだろうか、と思う。エイトビートと16ビートという解像度の違いはさておくとしても、だ。やはりチャック・ベリーはただひとり未来からやってきたのかもしれない。そして去来するひとつの言葉。ファック・オフ、ロバート・ゼメキス。あ、突然取り乱してしまって失礼しました。いくら自分が英語に不慣れな日本人で英語の機微がわからないとはいえ、さすがにFワードはいけなかったかもしれない。いやしかしやはりこう思ってしまうのだ。すなわち、マイケル・J・フォックスが未来からやってこなくても、チャック・ベリーはもとから未来人だった。そして恐らくようやくぼくたちは彼の同時代人になったのだ。