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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

アルファベットからこぼれ落ちる色彩について――ボブ・ディラン、ノーベル文学賞受賞

Essential Bob Dylan

Essential Bob Dylan

 ノーベル文学賞の受賞者が発表された瞬間、ぼくはパソコンの前で思わず叫び声をあげてしまった。村上春樹と言われたほうがまだ驚かなかった気がする。そして思わずApple Musicでベスト盤を再生し始めた自分に気づき、ちょっとミーハーすぎやしないかと反省もした(言うまでもないですがとてもいいです)。そんな様子からもわかるとおり、はっきり言って、ぼくはわざわざ人になにか語りたくなるほどディランに親しんでいるわけでもない。

 しかしここでひとつ言っておかなければならない、という衝動にも駆られた。それは、ボブ・ディランはシンガーソングライターであり、その詩は彼の歌声と彼の身振りとわかちがたく結び付けられているということだ。なんだ、そんなことか、という人もいるかもしれないが、これがなかなか興味深い問題をはらんでいるように思う。というのも、彼の詩、彼の声、彼の姿をひとつに結びつけ、それによってまさしくボブ・ディランノーベル文学賞に値する表現者たらしめたのは、レコード(ヴァイナルではなく、録音物、と広い意味で使っておく)というかなり新しい部類の複製技術であったのだから。

 歌も詩も、その文学としての歴史はその類のものでも最古の部類に属するだろう。その意味でボブ・ディランを文学者と呼ぶのはまったく正当だ、ということもできる。むしろ、ギターを抱えながら言葉をつむぐディランこそが、文学の起源そのものだ、とさえ言いうるだろう。しかし、ボブ・ディランの姿を吟遊詩人に重ね合わせるような大時代なレトリックは、「詩人ボブ・ディラン」といったかたちでのディランの文学化=神格化をきわめて粗雑に用意するにすぎない。起源への遡行に没頭するあまり、彼の特異性に盲目になってはいけない。

 くどいようだが、肝心なのは、ボブ・ディランがレコードを主要な媒体とした表現者だったということだ。ぼくたちがボブ・ディランの作品に触れようとすれば、必然的にそれはレコードを通したものになる。これは、他の文学者にはない性質のものだ。川端康成の作品を読もうと言って直筆原稿(やその複製)を手に入れるような人はいない。ボブ・ディランの言葉は、レコード一枚ごとに、それに固有の声色と節回しを伴ってぼくたちに届けられる。歌声のないボブ・ディランもたしかにまたひとつの作品として鑑賞に耐えうるクオリティを持っているかもしれないが、それをボブ・ディランのすべてだと言い切る人がいるだろうか。

 ノーベル文学賞ボブ・ディランに与えられたことによって、この(いまのところは)世界で最も注目される文学の殿堂に、アルファベットからこぼれ落ちるさまざまな色彩が流れ込むことになる。抑揚が、音色が、間が、ハーモニーが。このことに、ごくごく素朴によろこびたいとぼくは思う。というか、意識してそうしなければ。20世紀に入り、レコードの誕生によってようやく芸術作品の不可欠な部分として意識されるようになったこれらの色彩を、文学の権威の下に覆い隠してしまわないよう、ぼくたちは彼のアルバムに耳を傾けなければならない。