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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

ダブの両義性とサイバースペース――いまさら『ニューロマンサー』かよ、とか言わないで

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

ニューロマンサー (ハヤカワ文庫SF)

「われわれはいくつもの周波数帯を傍受する。いつも聴いている。ある声が、さまざまな言葉の中から、われわれに語りかけてきた。強烈な[ルビ:マイティ]ダブを聞かせてくれた」(ウィリアム・ギブスンニューロマンサー黒丸尚訳)

 ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』を最初に読んだとき、そこに流れている音楽がテクノではなくダブだったことに、ぼくは強い衝撃を受けた。そしてまた、ラスタファリアニズムの意匠(「ザイオン」、「マーカス・ガーヴェイ」、そして強調されるラスタカラー)がこれでもかと散りばめられていることにも。『ニューロマンサー』が発表された1984年には、テクノはまだ産声をあげる寸前だとはいえ、いわゆるテクノポップと言われるようなエレクトロニック・ミュージックは、既にオーヴァーグラウンドになっていた。しかしギブスンが音楽的なアイコンとして取り上げたのは、ドレッドロックスのすき間からオレンジ色のヘッドフォンをのぞかせるラスタの姿だったわけだ。

 ラスタファリアニズムへのシンパシーという意味で、そこには後のシリコンヴァレーにまで至るヒッピーカルチャーの残滓を指摘することもできるかもしれない。しかし、次のような記述には、ダブに対するギブスンなりの卓見が感じられる。

作業をするうち次第にケイスも気づいたが、集合体[ルビ:クラスタ]全体にいつも音楽が脈打っている。ダブというもので、ディジタル化したポップの膨大な見本から組み上げた、官能的なモザイクだ。(同上)

ギブスンはここで、ダブの本質が演奏にではなく、むしろ、与えられた素材の編集という過程にこそ宿っており、またそれ独自の官能を持つことを簡潔に指摘している。

 実際、ダブが未来のポップ・ミュージックに与えた影響力の多大さを考えると、ギブスンの嗅覚は圧倒的に正しかった。ダブが持つ独特のコラージュ/カットアップ感覚は、ニューウェーヴやヒップホップといった他の文化を経由しながら、1970年代以降のポップ・ミュージックのあり方を根本的に変えた。なにしろ「ダブワイズ」の手法は、「リミックス」と名を変えて日本のお茶の間にまで浸透している(もちろんこれはひとつの極論ではあるのだけれど、しかし主張する意味のある極論だと思う)。

 とはいえ、さらに重要なことを指摘しておく必要がある。それは、ダブがサイバースペースのなかで脱物質化/脱身体化された音楽としてではなく、むしろ強烈な身体性をともなうものとしてきちんと描かれている点だ。物語の終盤、ケイスがサイバースペースから自らの身体へと帰還しようと歩み始めるとき、それを導くのはダブの響きなのだ。

 ダブはきわめて身体的な音楽だ。サウンドシステムを通じて、重厚な低音域と、リヴァーブとエコーに満たされた中高域が鳴らされると、それは歴然とする。ダブというのはとにかく「でかい音で鳴らす」ということに意義があるわけで、フィッシュマンズ佐藤伸治クイックジャパンのインタビューでそんなことを言っていた。

 つまり、ダブは一方では脱物質化/脱身体化を志向する音楽でありながら、もう一方では、その享受のしかたにおいて、徹底的に身体的なものを志向もしているのだ。無限にエコーが鳴り響き、残響の止まない空間などありはしないし、ドラマーやギタリストが音の余韻ごと消えたり現れたりする演奏もありはしない。それはあくまで、磁気テープ上で電気的に変調を施された結果現れるものでしかない。その意味で、サウンドシステムから鳴り響く空間は、サイバースペースによく似ている。しかしそれが実際に鳴らされる現場においては、ダブは圧倒的な身体性をともなって顕現する。そう考えると、録音技術の発達が生み出したこの音楽は、きわめて両義的な性格を持っている。

 奇妙に生々しい身体性を感じさせる『ニューロマンサー』の物語と文体に、ダブというギミックはこれ以上なくフィットしている。幾度となく映画化の企画が立ち上がっては頓挫している『ニューロマンサー』だが、ザイオンの人々の聴く「強烈なダブ」を忠実に描き出すような映画化だったら、今更とは言わずぜひやってほしいように思う。もちろん爆音上映で。