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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

月にかかる雲を見上げて(《Clouds across the Moon》に関する覚書)

9月9日は909の日。いきおい、Rolad TR-909のことを考えざるをえなくなる。「909の使われている名曲」と言われて的確な一曲をすぐさま挙げることはかえって難しい。個人的な思い入れからすれば、LFO vs. F.U.S.E.の《Loop》(1993)かThe Martianの《Star Dancer》(1993)のいずれかだが、テクノとしてテクノらしく鳴っているこれら以上に、なんとなく頭に浮かんで消えない一曲がある。The Rah Bandの《Clouds across the Moon》(1985)だ。制作されたのはTR-909が世に出てまもないころ、ダンスミュージックとしてのテクノが産声をあげる直前。お決まりの4つ打ちではなく、華やかなシンセ・ブラスやストリングスに囲まれてのびのびとビートを刻んでいるのが印象的だ。ただ、いかにも80年代のシンセ・ポップ然とした楽曲のなかにあっては、不必要に芯の太いキックやスネア、あるいはちゃきちゃきとした硬さのあるハイハットが、ちぐはぐに響いているようにも聴こえる。ともあれ、30年ほど経った今に至るまで、根強く支持されている名曲だ。

さて、この曲については、そのストーリーテリングの巧みさについて言っておかないと気がすまなくなる。遠く離れた火星で任務についている編隊長の夫と、身を貫くような寂しさを抱えながら彼の帰りを待ちわびる妻の物語が、銀河間通信の交換手を狂言回しとして、ほとんど妻の一人芝居というかたちで語られる。彼女はひさしぶりの夫との会話に舞い上がり、こらえきれずに涙があふれてしまう。そしてまた、やるせない寂しさに苛まれ、「『友だち』が欲しいわ」と思わずホンネを口走りもする。彼女の感情の起伏によりそうかのように展開するメロディは、とてもドラマチック。けれども、重要なのは、こうした歌声に対置される、「地の声」だ。交換手に呼びかける妻の声と、あくまで冷たく無機質な交換手のアナウンス。これらが曲の冒頭と終盤に効果的に配されることによって、妻の歌声は、よりプライベートで、濃密な響きを持つことになる。三度目のBパート(コーラス前のブリッジ)が最後、わずかにどもりながら、不意に歌声から「地の声」に切り替わる場所は鳥肌ものだ。愛する人とのかけがえのない時間が唐突に終わってしまった、そんな戸惑いが浮かび上がってくるようだから。

彼女は急いで交換手に通信を回復するように頼むのだが、通信障害は交換手には手に余るものだったようだ。そして、彼女はすっかり落胆した声で、こう言うのだ。

「わかりました。ありがとうございます。またかけてみます。来年になったら…」

なんということだろう、彼女は一年にたった1回のチャンスを、不運にも逃してしまったのだ。ひとりでは抱えきれない寂しさを、たったひととき癒やすことさえ満足にできずに、彼女はまた長い時間をすごさなければならなくなった。同時に、リスナーもまた、いよいよ訪れるだろう最後のコーラスがもたらすカタルシスを目前に、不意に歌声を奪われ、宙ぶらりんにされてしまう。歌声と「地の声」という演出にすっかり浸っていたおかげで、ここでリスナーは、彼女と一緒に大きな喪失感に見舞われるのだ。リフレインするコーラスは、ひどく両義的に響く。親密で甘美な時間と、それが失われてしまった虚しさが、一度に襲ってくる。

よくこんな構成を考えつくものだと思う。歌にのせてストーリーを描くだけならば、単なるメロドラマになってしまうところだろうけれど、設定の妙とキメの一言、そして歌声と「地の声」の対比によって、意外性に富んだエモーショナルな曲になっている。

そういえば、電話口での語りを模した曲といえば、かのチャック・ベリーの《Memphis, Tennessee》(1959)というのもある。こちらも最後のどんでん返しが気持ちよく、ひねりがきいている。一聴するとラヴソングだが、そのラヴのなんたるかに秘密がある。本文とは関係ないので特に解説はしないが、そういえばこれもこれでダニエル・ミラーのSilicon Teensによるへなちょこシンセポップ・カヴァーが存在する。いちおうのせておこう。