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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

Joe Goddard "Home"のビデオがめっちゃいいのでみんな見て

 Hot ChipのJoe Goddardが今春ソロで新譜を発表するのだが、そこからのリードチューンがめっちゃいい。ビデオもめっちゃいい。一度見て。見た? 見てから読んでね。

 モダンな音像のけだるげなアーバン・ダンス・ポップはHot Chipの屋台骨を支えてきただけあってそれだけで秀逸なのだが、それと多幸感まみれのディスコとの往復というのはアイデアとしてもう完璧すぎるし、クラブ帰りのだりぃタクシーの車内ではBGMがダンス・ポップで、うつらうつらと夢の世界に入り込むと(おそらくはフロアで浴びるように聞いてきた)ディスコの世界に舞い戻る、というビデオのコンセプトも完璧だと思う。サスペンダーに乳首ピアスのゲイや黒人女性のグラマーなダンサーというベタベタな意匠も「夢だけど! 夢じゃなかった!」なオチも、このなんも言えない鉄壁さの前ではチャームポイントでしかないよね。ちなみにYouTubeのコメントによると元ネタはこれだって。

渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』講談社現代新書、2013年

 最近、思うところがあって、詩を読んでみようと思っていた。しかしどこから手を付けてよいかわからない。日本の近現代詩を扱ったアンソロジーを手にとってみたりしたものの、いまいちぴんと来る出会いというものがない。どうしようかと思っていた折、手頃そうな、しかもけっこう最近出た現代詩の新書があったので、読んでみた。僕はこの著者の書き物を読んだことはない。少なくとも名前を見たのは初めてだった。

 中学校の現代文の授業で出会った詩にどうもときめかない、著者のそんな経験からこの本はひもとかれる。谷川俊太郎の『生きる』という詩だが、いっけんすると含蓄のある詩だが、なぜぴんと来ないのか。奇妙なことに、著者はだいたい時を同じくして、同じく谷川俊太郎の別の詩――『沈黙の部屋』という――に、こころをうたれ、何度も手で書き写すという経験をしていた。この差はどこにあるのか。それは、前者が読者の過去の経験を呼び覚ますタイプの詩で、後者がそうした経験の有無をあてにしない、「未来さえあれば読める詩」だからだ、という。ただそこにあることばに触れさえすれば、教養とか経験とかいったものを抜きにして、その世界に入り込んでしまうような詩。著者が心奪われ、そして詩の可能性を感じたのもそうした詩だったということだ。

 こういった具合に、この本はある詩と著者との個人的な出会いと、その出会いをめぐって考察される「現代詩とはなにか」「それにどう向き合うべきか」という問いへの答えから構成される。この詩はなにを意味していて、こういう技法が使われていて、時代背景はこうで… などということは、必要に応じて言及されこそすれ、本題ではないのだ。たとえば、詩においてある言葉を漢字にするか、ひらがなにひらくか、といった選択に関しては、次のようにとても実感のこもった言葉で解説される。

 この詩をくりかえしノートにうつしているとき、わたしはたびたび書きまちがえた。それは、漢字で書かれていることばと、ひらがなになっているところとをとりちがえて、無意識に書きかえてしまうのである。あとから見くらべてまちがいに気づき、こうした表記のつかいわけが非常に意識的になされていることを感じるのだった。

 著者は気に入った詩をしばしば書き写したというが、そうした経験があってこそ、根拠こそわからないにせよ、この詩にしかありえない言葉のひらきかたがあるのだ、ということが伝わってくる。

 きわめて個人史的に編まれたこの本は、それゆえに、きわめて誠実である。その主張のいくつかは少しナイーヴすぎるようにも思えるけれど――「現代詩のわからなさは効率主義の社会における癒やしである」といった主張とか、日本語特殊論といったもの――、詩人をそのナイーヴさゆえに責めるというのは一種倒錯のように思えてならない。それに、単なるナイーヴな詩人の言葉とは言い切れない鋭い洞察や切実な訴えがそこかしこに見られる。それがよりいっそう、この本を信頼してもよいかな、という気にさせる。紹介されている詩も面白いものばかりで、とりわけ安東次男の作品は他も読み込みたいと思えた。

 良い本でした。

「ヒップホップ」の終わり――大和田俊之、磯部涼、吉田雅史『ラップは何を映しているのか――「日本語ラップ」から「トランプ後の世界」まで』毎日新聞出版、2017年

 音楽と政治は常に微妙な関係を保ってきた。最近も、音楽に政治を持ち込むな、とか、あるいは音楽は本質的に政治的である、とか、そういった議論がSNSを賑わせる。SEALDsのコールがラップの文脈から評価されたり、BLM(Black Lives Matter)運動の広がりのおかげもあって、ヒップホップがそうした論争のなかに巻き込まれることもしばしばだ。すると、ヒップホップは公民権運動の子孫であり、政治的なメッセージを臆せず発してきた硬派な音楽なのだ! とか、いやいやもともとはパーティ・ラップが始まりなんだから政治性なんて後付だよ、なんて、ヒップホップのなかでもまたややこしい議論が繰り広げられることになる。『ラップは何を映しているのか』と題された本書はそうしたややこしさを真正面から受け止めるものだ。大和田・磯部・吉田の三者は、このややこしさを丁寧にときほぐしながら、ヒップホップの始まりから現在に至るまでを、鼎談ならではのテンポで調子良く読み解いてゆく。

 印象的なのは、いわゆるヒップホップと呼ばれるものはもはや過去のものになりつつある――少なくとも今のラッパーたちとは断絶しているという事実と、ヒップホップのある種のドグマが次第に解放されていっている様子だ。内省的な様子を強めていくアトランタを中心としたトラップシーンへの考察や、トランプ当選やBLM運動に対するラッパーたちの葛藤、あるいはファッションを通じてホモフォビアを乗り越えていくラッパーたちの姿は、歴史の断絶というネガティヴなトピックよりも、ヒップホップカルチャーそのものがより柔軟に変化しつつあることを示しているように思える。既に書名でわかるとおり、問題は「ヒップホップ」というヘヴィな歴史を背負った文化にではなく、歴史の重荷から解放されつつある、「ラップ」という表現手法にあるのだ。その意味で、本書の第二章が回顧的なテイストをたたえているのは必然なのだろう。

 日本にラップという表現が根付くまでを問題にした第三章もまた示唆に富む。ヒップホップとしての真正性(オーセンティシティ)と独自性(オリジナリティ)を、日本人がどのように獲得するか、あるいは獲得するべく歴史を叙述していくか…… という込み入った問題を扱いながら、よりグローバルな展開を見せる日本人ラッパーたちの現在までを語っている。しかし、この章に関して言えば、次の磯部の指摘が最も重要であるように思えてならない。

磯辺 …日本のラップ・ミュージックが延々とアメリカの影の下でこじらせているというのは面白いことですよね。日本のポピュラー・ミュージックの中で唯一語るに足ると言えるほどの複雑さを持っている、とさえ思います。(201頁)

 文化的にも政治的にも、日本は徐々に、そしておそらく半ばは意識的に、「アメリカの影」を忘却しつつあるように思われる。そんななかでラップは唯一と言っていいほどに「本場」としてのアメリカが絶大な影響力を持つ音楽だと言っていい。ヒップホップという文化がラップ・ミュージックとしてグローバル化した今も、アメリカはトレンドの先端として存在感を放ち続けているからだ。おたく文化にせよロック・ミュージックにせよかつてはアメリカの影を色濃く意識しつづけた文化だった(少なくともそういう「語り」が多かった)にもかかわらず、気づけばそうした屈託を抱えた文化はもはやラップ・ミュージックくらいになってしまった。文化のガラパゴス化に対する磯部の苛立ちには深く共感してやまない。

 その一方で、日本の若いプレイヤーたちが持つ文化的・社会的背景の多様性に関する言及がもうちょっとあってもよかったのではないか、という思いもある。いや、そういう話についても紙幅は割かれているのだが、鼎談という性質上、総論的で話題の焦点が若干ぶれているように感じられたといったほうが正確かもしれない。この情報量をこのボリュームに詰め込めば、読めば誰しも自分なりに「ここをもうちょっと!」と思ってしまうわけで、それはもちろん高望みに過ぎず本書の瑕疵ではない。価格も手頃(1200円+税)だし、なんにせよヒップホップ/ラップ・ミュージックの今を総ざらいするのに最適な一冊であることに変わりはない。

機械化された喉のヴィルトゥオーゾ:サイボーグ化するラッパーに関する試論(2)

(1)はこちら

caughtacold.hatenablog.com

オートチューンのテクスチャ:Futureにおけるオートチューンの使用から

 オートチューンの効果のひとつに、独特のテクスチャが声に与えられるという点が挙げられる。急激な音程の昇降をともなう節回しや、あるいはメリスマ的唱法を用いた際にあらわれるいわゆるケロケロ声のみならず、ピッチのゆらぎが抑えられることによってどこか人工的で、ぎらついた声色をまとうことになる。かつてT-Painに「オートチューンをきちんと使っていない」と揶揄されたFutureは2013年のインタヴューで次のように述べて、T-Painの世代におけるオートチューンの役割と自身のそれとの違いを強調している。

最初にオートチューンを使ったとき、おれは歌うために使ったわけじゃまったくないんだ。T-Painのようには使わなかった。おれはオートチューンをラップするために使ったんだよ、そうするとおれの声がぎらついて聴こえるから。いまじゃ誰も彼もオートチューンでラップしようとしている。
My Complex: Future Talks Auto-Tune, Dumbing Down Music, and Why He’s Not a Romantic | Complex(拙訳による。)

 重要なのは、たいした節回しのないゆったりとしたフロウにおいてもたしかにそのテクスチャを感じられるということだ。ここでオートチューンはラップを歌にするためにではなく、ラップにある特有のテクスチャを与えるために用いられている。

 大和田俊之、磯部涼、吉田雅史による鼎談本『ラップは何を映している――「日本語ラップ」から「トランプ後の世界」まで』(毎日新聞出版、2017年)において大和田はこうしたオートチューンの効果を次のように述べている。

[略]フューチャーをはじめとしてトラップの楽曲ではボーカルにオートチューンをかけることによって、ラップとトラックの境界線が曖昧になるんですね。(40頁)

 たしかにプラスティックでぎらついたオートチューン越しの声質はトラップの音像のなかによく溶け込んでいると言える。大和田がこの鼎談のために選曲したうちの一曲、Drake & Futureの“Jumpman”を聴いてみると、オートチューンをかけていないDrakeの声とFutureの声では、圧倒的に後者のほうがビートの質感と融合しており、その対比が印象的でもある。

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 しかしながら、トラックとラップだけではなく、ラップと歌声との対比から考えて見るとどうだろうか。大和田に応答する吉田のフロウがゆるく、遅くなることによってメロディアスになり、その結果としてオートチューンが用いられるようになる。という見立てはおそらく大筋からみてそう間違いではないのではないかと思う。しかしながら、Futureはオートチューンの特性を存分に活かすかのようなメロディアスな節回しをことさら用いることはない。むしろDrakeとの共演作(《What a Time to be Alive》, 2015)においては、淡々としたフロウのなかにひっそりと歌声を紛れ込ませるような微妙なオートチューン使いを見せてもいる。

 たとえば、冒頭の“Digital Dash”ではほとんど抑揚のないフロウを披露しているが、“You see why these niggas be hatin', ignorin', I’m goin' right in / I was born to get this money in this life of sin / I poured up before they got my dog on murder again”というラインではかすかにメロディラインが与えられ、オートチューンは即座にその歌声をアシストし、その素性をあきらかにしている。

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 あるいは2曲目、“Big Rings”においては、“Man, what a time to be alive / I’m drinkin' lean, they thought I died”というラインにおいてはオートチューンをふりきるかのように言葉を吐き捨てたかと思うと、ふたたび抑揚を抑えたフロウに戻る。この段階で既に興味深いのだが、続く“Niggas be droppin' subliminals, nigga / That just some jibber jabber / We take a Mellow Yellow then fill it with red forever-ever / These niggas so jelly, jealous / Man, these niggas get scared, they telli'-tellin'”というわらべうたのような韻を踏む箇所では、まさに子どもが歌を口ずさむかのようにささやかにメロディを取り入れ、またしてもオートチューンが前景化する。こうしたオートチューンの特質を利用した抑揚は、このコラボレーション作品のなかに特に一貫してみられる。

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 声のこうしたささやかな運動に反応して、オートチューンは独特のテクスチャを楽曲にまとわせている。それは決して同輩のラッパーが使うオートチューンほど派手なものではない。たとえばTravis Scottはよりメロディアスなフロウをオートチューンにのせ、いわゆる「ケロケロ声」を味わわせる部分が大きいように思う。しかしFutureのそれはいささか違う。それは例えるならば下塗りをしないカンヴァスに微妙なたわみをあたえ、カンヴァス全体にモアレを生じさせるかのような、些細でありつつもまったく全体的な緊張感である。*1ぎらついた単調さや「ケロケロ声」といったチージーなオートチューン像とは違う繊細な手触り。「ラップが歌声になる」のでもなく、「歌声がラップになる」のでもなく、どちらともつかない「なる」ことそのもののメタな力動が、オートチューンのぎらついたテクスチャにいっそうの深みを与えているのだ。

 まとめよう。Futureの用いるオートチューンは「ラップを歌にする」ためのものではなく、従ってましてや「ケロケロ声にする」ためのものでもない。それはラップと歌という二者のあいだに生まれる緊張関係をひとつの「模様」のように提示し*2、彼の声を唯一無二に響かせるための特殊効果なのである。T-PainはFutureのオートチューンを「正しく使っていない」と批判したが、これまでの考察をふまえるならば、Futureはオートチューンという喉の繊細な利用法をモノにしているというほかないだろう。DJ /Ruptureの言葉を改めてひけば、これこそまさにオートチューンの「サイボーグ的な受容」と言ってよい。

結論に代えて:サイボーグ化するラッパー

 ラップという表現形式が発達するにつれ、ラップと歌声の境界線はこれまでになく薄れてきた。R&Bの実質上のヒップホップ化、ないしそのサブジャンル化についてはさまざまな論者が指摘しており、ラップミュージックの「メロディのついたラップ」とR&Bの「ラップのような歌」はトラップミュージック全盛のいまもはや区別をすることはまったく意味をなさなくなった。そのとき、もはや着目すべきは声のテクスチャそのものであり、オートチューンは歌声/ラップ(地声)という退屈な二項対立のなかに第三の声を差し出す。

 しかし第三の声はなにもオートチューンによってのみもたらされるわけではない。それは単純にチップマンク声(Frank Oceanの“Nike”を想起すれば良い)かもしれないし、過剰なまでにディストーションを施された声(同様にKOHHの“Die Young”を想起せよ)かもしれない。ラッパーは数々のエフェクトと共に既にサイボーグ化している。もはやそこでは肉声のリアリティではなく、声のテクスチャに与えられた意味の次元におけるリアリティの判断(それはよくできたリアリティか? あるいはその虚構はどのようなリアリティを描いているのか?)こそが問題となる。注意したいのは、単にエフェクトをかけていることだけではなく、 どのようにそのエフェクトを乗りこなしているか 、という点が最も重要なフォーカスになるということだ。

 そもそもヒップホップ・プロパーでは決してない筆者がこの論考を書くに至ったきっかけは、Kanye Westの諸作を聴いたときに抱いた、なぜラッパーはオートチューンを通じてサイボーグ化しようとするのか? という問いだった。本論考がその答えになっているわけではないが、オオカミの遠吠えをもオートチューンにかけてしまうKanye West(《The Life of Pablo》収録の“Wolves”を参照)のある種の病理に突き動かされ、Futureの分析に至った。その過程でオートチューンという喉を使いこなすヴィルトゥオーゾが存在することに気付いた。

 しかし、そう考えてみればラッパーは、その原初からサイボーグであったのではないか? という思いもまた湧き上がってきたのだった。そもそもラッパーは轟音を発するサウンドシステムにマイクを通して乗りこなす、マイクのヴィルトゥオーゾではなかったか。MCに与えられたマイクロフォン・コントローラーというバクロニム(事後的に与えられた頭字語)は伊達ではない。はじめに拡声ありき、あらかじめラッパーの喉はマイクロフォンによってサイボーグ化されていたのではないか。

 だとすれば、オートチューンに飛びついていそいそと自らの喉をつくりかえていくラッパーたちの姿はなにも不可思議なものではない。ラッパーとはそもそもマイクロフォンによって喉を拡張したサイボーグであって、必要なソフトウェアのバージョンアップを行っているだけなのだ。

What A Time To Be Alive [Explicit]

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DIRTII[初回限定盤]

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*1:カンヴァスやモアレという比喩から、ユリイカ2016年6月号所収の佐藤雄一による論考「なぜ貧しいリリックのKOHHをなんども聴いてしまうのか?」を連想される読者もいるだろう。佐藤はKOHHにおける言葉の執拗な反復が「模様」のように図と地を撹乱するダイナミズムを産んでいることを、クレーの絵画作品を例に論じている。しかし、言葉とトラックという対立項は分析に際して少し目の粗いものであるように感じられ、それが本論考のモチベーションのひとつ(声そのもののテクスチャを論じる)になっている。

*2:もちろんこの比喩は前掲の佐藤による論考を念頭においている。

機械化された喉のヴィルトゥオーゾ:サイボーグ化するラッパーに関する試論(1)

あの新譜のオートチューンに意味はないのか?

あの新譜 auto-tune 意味なくかかっていた
tofubeats - SHOPPINGMALLより

 今ヒットチャートに登っているヒップホップ/R&Bのトラックにはほとんと必ずオートチューンのかかった歌声がフィーチャーされている。Cherのカムバックを飾り、Daft Punkのトレードマークとなったあの変調されたヴォーカルは、T-PainやLil' Wayneによるヒップホップ/R&Bへの大々的な導入を経て、ディレイやリヴァーブと同じくらいありふれた特殊効果になってしまった。一方で国内の事情に目を向けると、日本のヒップホップ界の最重要エンジニアのひとり、イリシット・ツボイ氏が言うには、今をきらめくT-PABLOWやYZERRを擁するBAD HOPの面々は、自らのヴォーカルに最低3段ものオートチューンを施したという。それでもまだ足りないのだそうだ。もはやここまでくると一種の強迫的ななにかの兆候にしか見えない。USの流行りだから、などという軽薄な理由で取り入れるだけではこれほどの執念は生まれないだろう。

 オートチューンの革命性については論をまたない。歌声の明瞭性や再現性に限界のあるヴォコーダー(とりわけ女性の声を再現することはその性質上難しいという)や、大音響を口腔内に直接響かせるゆえに利用者に著しい身体的負荷を強いるトークボックスとは異なって、オートチューンはいわゆる「ロボ声」をかつてない精度で、歌声の個性を損なうことなく、かつ容易に手に入れることができる。プラグインを差し込み、ピッチ補正のレヴェルを最大までぶち込めばあっという間にあの声が鳴り響く。Cherという女性シンガーの50歳を過ぎてのカムバックにあたってこの特殊効果がフィーチャーされたことは示唆に富むし、Romanthonyのどこか中性的な歌声はオートチューンなしにロボ声になりうることがなかったろう。T-Painのやわらかなハイトーン・ヴォイスだってそうだ。オートチューンは歌い手にとってあまりにも手軽でありながら、これまでにない声質の探求が可能となった夢の特殊効果なのだ。

 しかし、その流行には単なる新奇さ以上の文化的意義がなにかしら含意されているはずだ。DJ /RuptureことJace Claytonが北アフリカの土着的なポップスにおけるオートチューンの普及について、イスラム教の美学と「ロボ声」の奇妙だが説得力のある類似性を指摘したように。高くよく伸びる、誇張されたメリスマ。女性の声の美しさを強調すると同時に、その真の姿を特殊効果の奥に秘めてしまう誇示と隠蔽の緊張関係。それらすべてが、北アフリカイスラム教社会がおそらくは欧米のポップ・シーンに先駆けて著しいオートチューンの普及を目の当たりにした理由であるだろう。

 さて、tofubeatsの声を半ばのっとりながら、最初の問いに戻ってみよう。あの新譜のオートチューンに意味はないのだろうか?

オートチューンという第三の声

Lil Wayneはオートチューンを通したままでレコーディングする――処理されていないヴァージョンのヴォーカルは存在しないのだ。パワフルなコンピューターのおかげで、レコーディング・セッションのあとであらゆる種類のエフェクトをヴォーカルに試してみることができるような時代に、直接オートチューンをとおしてレコーディングするということは、オートチューンに完全に身を捧げるということだ。もはや、「裸の(naked)」オリジナル・ヴァージョンは存在しない。これは、サイボーグ的な受容だ。
Pitch Perfect | Frieze拙訳 による。)

 Jace ClaytonがLil Wayneの逸話をひきながら指摘するように、オートチューンの現場はもはやポスト・プロダクションではない。それはむしろ、人体の器官を拡張する想像的な代替器官であると言ってよい。T-Painもまた、同様の指摘をしている。

多くの人はオートチューンを使って歌おうとしない。ただ歌った後にオートチューンをかけるんだよ。そりゃひどい間違いだ。オートチューンは使い出せるようになるまでいろいろと学ぶべきことがあるんだ、なにせ扱いの難しいものだからね。
T-Pain: Future Is Not Using Auto-Tune Correctly(拙訳による。)

 自らキーボードなりギターなりを演奏する必要のあるヴォコーダートークボックスとは異なり、ライヴでオートチューンを用いるということは、あるキーに調律された喉そのものを手に入れるようなものだ。演奏時にはあえて自分の声を封じなければならないトークボックスとは、その意味でまったく反対だと言えるだろう。オートチューンをかけっぱなしにしてしまえば、曲間のMCでさえもメロディとなる。

 しかし、注意しておきたいことがある。これを「オートチューンはあらゆる声を歌にしてしまう」と言ってしまうのは簡単だ。とはいえ、「オートチューンはあらゆる声を歌声にしてしまう」という極論を採用した瞬間、オートチューンはポップ・ソングの人工性の極北をしめすアイコンとして、一挙に陳腐化してしまうだろう。たしかにそれは赤ん坊の鳴き声さえも歌声にしてしまい、虫の声も獣の声も歌声にしてしまう。しかしT-Painが言うように、それを正しく使うためには相応の修練が必要なのだ。オートチューンは人間の喉の拡張として、少なくともあるべき使いこなし方が存在するのだ。したがって、筆者は次のように提案したい。 オートチューンは語り(=ラップ)と歌声という使い古された二項対立に差し出された第三の声 であり、ラッパーがこの特殊効果に熱狂するのはまさしくこの 第三項としてのオートチューンが彼らの声による表現の可能性を劇的に広げてくれるからである、と。

 いずれにせよ、オートチューンがもてはやされるようになって20年近くが経とうとしている今、オートチューンがゲート・リヴァーブのような時代の徒花として散ってしまわなかったことの意義を考えるべきである。ダブにおけるディレイ、ロックにおけるディストーション/オーヴァードライヴと同様に、いまだオートチューンは人々の心を捉えて離さない。それはマンネリズムによるものなのか、あるいはオートチューンの「洗練」によるものなのか。本論では、後者の可能性にかけて、ささやかながら具体的な分析を行ってみたいと思う。題材とするのは、シェール/ダフト・パンクを第一世代、T-Painを第二世代とするならばオートチューン第三世代に相当する(と筆者が考えているだけなのだが)、Futureである。より具体的には、筆者がオートチューンの産む独特なテクスチャを最初に感じたDrakeとの共作を取り上げる。そこから、いわゆるチージーなイメージのオートチューンとは異なるオートチューン像を浮き彫りにしたい。【続く】

caughtacold.hatenablog.com

Epiphany

Epiphany

オルタナティヴなポップ・ソング:SOPHIE “PRODUCT”(2015)について

調性の崩壊と演奏者の解放

 おおよそ18世紀に確立した古典調性と呼ばれる音楽のフレームワークは、20世紀初頭にその構造的極限に達した後に崩壊を迎え、十二音音楽やミュジク・コンクレート、不確定性の音楽といった諸実践へと開かれていった。調性とはいわば楽音の内部に持ち込まれたヒエラルキーのことであって、それはその用語の端々に――主音、属音、下属音…――あらわれている。ある調性のなかではひとつの音が他の音に対して優位にあり、旋律や和声は主としてその調性における主音へと「解決」されるべく、一定のケーデンス・ラインに従って連結されていく。あらゆる音には主音へと向かう役割が与えられ、それに奉仕するのである。

 こうしたヒエラルキーはたとえばオーケストラのような集団の内部にかたちづくられるヒエラルキーとも重ね合わされる。とりわけ一人が一旋律を担う管弦楽器においては、自らの発する音の行く先はオーケストラという集団を束ねる指揮者と、楽曲の内部から各々の音を導く調性のシステムによって制御されることになる。とすると、調性の崩壊という事態は次のようなテーゼをも導くことになる。すなわち、「楽音≒演奏者の解放」である。

 実際、調性が崩壊した二世代ほどあとに勃興したミニマル・ミュージックにおいては、あきらかにそうした意図を持って制作された楽曲が数多く見受けられる。Terry Rileyの《In C》(1964)、Frederic Rzewskiの《Les Moutons de Panurge》(1968)、あるいはLouis Andriessenの《Worker’s Union》(1975)といった作品は、調性の崩壊以降にみられるようになるプロセスへの志向と共に、指揮者によって統率されるオーケストラというモデルによらない集団演奏によって新たな音楽的経験を生み出すことを目的としているといえる。

ポップ・ミュージックの想像的な分業制度

 ポップ・ミュージックはかなり柔軟に調性の外にある概念――ブルーノート、ノイズ、不協和音等々――を取り入れてはいるものの、やはり根本的には調性音楽の範疇にある。それゆえポップ・ミュージックの内部にもまた、ヒエラルキーが存在する。それは既存のオーケストラのような大集団というよりも、数人~10人程度の比較的小さな集団へと効率化されてはいるのだが、リズム隊やギター、ヴォーカルといった楽曲の構造上のヒエラルキーに従った分業は維持されている。

 あるいはそれは、たとえばJB'sにおける罰金制度や、Fela Kutiの《Zombie》に見られるような軍隊のアナロジーによって、しばしば強化されていると言ってもいいかもしれない。絶対的な権力者としてのバンマス、それに服従することによって生まれる強烈なグルーヴ。その魅力を否定したいとは決して思わない。まあJB'sはともかくとしてFela Kutiがポップスなのかという話もあるけど。

 ポップ・ミュージックというフォーマットにのっとる限りにおいて、こうした構造的分業制は維持される。それが現実に存在するアコースティックな楽器とは関係のない電子音から構成されるとしても、音色や音域の特性によってリズムを提示するブロック、和声を提示するブロック、旋律を提示するブロック、といったかたちでけっこうはっきりと分業のありようを見て取ることができるものだ。バンドでつくろうがひとりでつくろうが、楽曲の構造上形成される音色の諸ブロックの分かれ方をここで、ポップスの想像的分業制、と呼んでみることにする。そこから逸脱すれば、それはもはやポップソングというラベルをはぎとられ、エクスペリメンタルというおためごかしのラベルを新たに貼り付けられることになるだろう。

 調性の枠内にとどまるポップ・ミュージックにおいては、演奏者の解放に相当するようなイノベーションは起こり得ないのだろうか。たといひとりで打ち込みで作っていたとしても想像的な分業制度を音色にこめてしまうのだとしたら?

ヒエラルキー抜きのポップ・ソング

 そこに、SOPHIEが現れる。彼の音楽を聞いて面食らうのは、それが明らかにポップ・ソングとして機能しうるというのに、想像的な分業制がそこに見いだせないからだ。ベースラインとドラムとコードはいびつに図太いシンセベースによっていちどきに代替されてしまっている。ドラムスとSEの区別もなく、強いて言えば歌声だけがメロディを提示することによってかろうじてひとりそこに立っているかのように思える。しかしそれもずたずたに断片化され、性急にSEと混じり合ってしまう。

 そもそもトラップ・ミュージックやフューチャー・ベースといった最近の流行にその萌芽があった――トラップのベースラインと同化するキックなど――とはいえ、SOPHIEのそれは露悪的なまでに「やり過ぎ」であって、しかし奇妙なポップさを勝ち得ている。それはまさしく、音楽の想像的分業制によってではなく、個々の音色の薄気味悪いと同時に人懐こい性格によるところが大きいだろう。すなわち、次から次へと浴びせかけられる音色のシャワーが、想像的分業制すら廃したポップ・ソングという異物を生み出した、というわけだ。

 その聴感上の新奇さを埋め合わせるように、SOPHIEの曲にあてられた歌詞も和声も陳腐なほどポップだ。泣きたくなるほどやすっぽい話… と菊地成孔なら言いそうな。しかし、そこに厳然たる不在――ヒエラルキーの、想像的分業制の――の穴が空いているが故に、それを単純に調性の枠内にとどまるポップスとまったく同じものと見なすことはできない。この奇妙な音のシャワーをいくらでもいくらでもと浴びている内に、自分までプラスティックの粒子になってしまいそうな幻覚をみてしまう。

 かようにSOPHIEの《PRODUCT》はポップ・ミュージック史になにがしかの爪痕を残したに違いないと思う。それはアンチ・ポップでもなければド直球のポップでもない、ポップを換骨奪胎しきった、正真正銘オルタナティヴなポップだ。

PRODUCT [帯解説・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC493)

PRODUCT [帯解説・ボーナストラック収録 / 国内盤] (BRC493)

Product

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クレイジーなRhythm Roulette (Mass Appeal) 3選

 HARD-OFF BEATSを見ていたら、Okadadaが「45 KingのRhythm Rouletteが良い」という話をしていて、たしかにあれはかなりクレイジーでよかった。

 iPhoneのマイク(!)でレコードをぽよぽよと振る音やめりめりと折る音、デスクに叩きつける音などをサンプリングしたうえ、ぼろっぼろになったヴァイナル上をタンテの針でひっかいてスクラッチノイズもゲットするという遊び心の塊みたいな制作風景。できた音もスムースで非常に良い。

 紹介が遅れたが、Rhythm RouletteMass Appealというメディアがやっている名物企画で、目隠しをして買った3枚のレコードを使ってビートメイクする様子をドキュメントしたものだ。個人的にはFactMagのAgainst the Clockと並んで毎回必見の企画である。なかでもおれのお気に入り、クレイジーなものを3つ集めてみた。

9th Wonder

プロセスがクレイジーというよか、「いったい何曲作る気だよ、お前!」という溢れんばかりの創作意欲がクレイジー。当たりのレコードをひいたっつーのもあるのかもしれないが、4曲も立て続けにつくってしまうのはさすがだ。

EL-P

 わりかし何の変哲もないネタが、執拗な加工によってEL-P印のあの感じになっていくさまがかなりクレイジー。使ってるタンテもミキサーも安物なのが好感度高い。クラシックのレコードからトリルの部分だけ取り出してSE的に使うところなど、マジで痺れる。

Oh No

 Madlibの弟、Oh Noはまずゲームショップで3本ゲーム買うところから始めるというイカれっぷりである。スタジオの小汚さにも親近感が湧く。制作風景はマジ「なに、これ…」だが出来上がった音はかっこいい。最高。