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ただの風邪。

音楽のことを中心にいろいろと書いています。

Iggy Azaleaの新曲“Mo Bounce”に目の覚めるような酷評が

 標題の通り。あんまり評判がよろしくない。実際の曲はこちら。

 んーまあ、話のタネにぽんと出されたなら別に…… という気もするが、どうやらわざわざ制作を仕切り直して延期中のアルバムをお披露目する気合の一発らしい。「それでこれかい!」という叫びが一部ウェブマガジンで聞かれている。ちょっとこき下ろされ方がおもしろかったのでメモしておく。

www.spin.com

It’s here: Iggy Azalea’s new song “Mo Bounce,” a budget Far East Movement EDM-rap-pop Frankenstein with all the subtlety of LMFAO and Lil Jon’s “Shots.”
これがIggy Azaleaの新曲“Mo Bounce”… どことなくLMFAOとLil Jonの“Shots”を思わせる、Far East Movementによる安っぽいEDM・ラップ・ポップのフランケンシュタインだ。

 記事タイトルが既にひどいのだが、一行目から凄い表現だ。“EDM-rap-pop Frankenstein”という表現にただならぬ嫌悪感がにじみ出ている。

“This is a statement,” he[Beats 1のZane Lowe] said when premiering the song today, but that only makes sense if the statement Azalea was trying to make is, “Please never listen to my music again.”
「これは声明です」とZane Loweは今日のこの曲のプレミアで言っていたが、Azaleaの出したかった声明とやらが「私の音楽を二度と聞かないで下さい」なんだと言うのなら意味はわかる。

 なにもそこまで…

The next time I hear this song, I hope I’m blackout drunk.
次にこの曲を聴くことがあったら、酔っ払ってぶっ倒れているときがいい。

 目の覚めるような酷評だ。そしてFact Magの酷評もなかなか堂に入っている。

www.factmag.com

They say be careful what you wish for because you just might get it and, perhaps, we’ll learn that lesson the hard way with Iggy Azalea’s new single ‘Mo Bounce’. The track, which was produced by The Stereotypes and ‘Like a G6’ artists Far East Movement, sounds exactly like what no one wanted from the blog house revival.
願い事には気をつけて、なぜならほんとにかなってしまうから。とはよく言われることだが、恐らく私たちは同じことをIggy Azaleaの新しいシングル“Mo Bounce”で辛くも思い知ることになるだろう。この曲はThe Stereotypesと“Like a G6”のFar East Movementによるもので、誰もブログ・ハウス・リヴァイヴァルからこんなものが出てきて欲しいとは思ってなかったような、まさにそういうサウンドだ。

 ブログ・ハウスというのはちょうど10年前くらい、ヒップな音楽ブログが中心になって流行らせていたフレンチ・エレクトロとかあの周辺のダンス・ミュージックのことで、詳しくはこの記事を(昔を懐かしみながら)チェックしてほしい。まあとにかく、リヴァイヴァルするにしてもこんなのってないよ! という心の叫びである。

Check out ‘Mo Bounce’ below, which is maybe something you will like if you really miss Uffie.
以下で“Mo Bounce”をチェック。もしあなたがUffieがいなくなって寂しいと思ってるんなら気に入ると思います。

 若干Uffieに失礼だろ、と思いつつ、聴いてみると「あぁ… でもたしかにそんな感じ」となってしまう。Uffieねぇ。Yelleは元気にしてますけどね……。

レーザープリンタでPCB基板をエッチング

craftsman.gtfm.org

 これをまるごとそのままやってみた(5回くらい失敗したが省略)。某GB Cart Flasherのパターンをつるつるのマガジンペーパーにモノクロレーザープリンタで印刷。アイロンで転写(ここが一番ムズい! やり直しがいくらでも効くのが幸い)したのち、

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 こうして

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 こうなって

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 流水で洗ったあと、サンドペーパーで磨いて

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 こうじゃ。出来た。けっこう細かいパターンだったけど。転写時にナイフできちんと整えたのがよかったのか、見た感じ無事にエッチングできた。あとは穴開けてパーツをはんだづけしてDONE!なのだが、三端子レギュレーターとブリッジダイオードを買うの忘れてて中断。

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 IC類はソケットにしてある。マイコンにプログラムを入れてやらないといけないのだが、それはそれで体力使いそうなので後日。

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 関係ないですがメルカリに出品物。Arduino互換ボードとコンプ。よろしければ

レトリックと含蓄

 Twitterを眺めていると、こんなツイートが流れてきた。botからだ。

 言うまでもないが、陳腐だ。botだからもともとどういう文脈でどのようにしてこの言葉が生まれたのか知るよしもない。ただこの言葉とそれをEXILEのATSUSHIが言ったという事実だけがあり、しかしそれだけでこの言葉が機能するには充分ではある。ATSUSHIというEXILEのベテランパフォーマーが言うならば、なんとなく説得力があるような気がする。ファンにとってはなおさらだろう。

 しかし、強さと優しさを兼ね備えるべし、という趣旨の格言といえば、フィリップ・マーロウの吐く「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」を思い出す。僕はレイモンド・チャンドラーを一行も読んだことはないが、名言集の類で見かけてなんとなく記憶に残っていた。名言というのは得てしてそんなものだろう。そうして脳内にこびりついた名言が存外人生を決定してしまうこともある。

 閑話休題。たとえばこのふたつの言葉を比べてみよう。言わんとすることはだいたい同じである(繰り返すが、「強さと優しさを兼ね備えるべし」、だ)。後者のほうがより含蓄があるように思われるのはなぜだろうか。文字数が多いからだろうか。洒落た言い回しをしているからだろうか。

 端的に言えばそれは、言葉のなかに畳み込まれている情報の多さによる。

 ATSUSHIの言葉の説得力は、先述したように彼のキャラクターに依存している。なにも知らない人がただこの文を見て「なるほど含蓄があるなぁ」と思うだろうか。しかし、いかにも男性的で色気もあるキャラクターを背景にすると、なんとなく説得されてしまう。言葉自体には大した情報は畳み込まれていない。むしろそれは開かれている。

 対して、マーロウの言葉は、マーロウというキャラクターをまるで知らなくとも、いかにも説得的であるように感じられる。じっさい僕はフィリップ・マーロウのなんたるかをまるで知らないのだ。そこでこの名言を解きほぐしてみると、なぜ「強さと優しさはセット」でなければならないのかまでを簡潔に言い表していることがわかる。すなわち、強さは生き抜くための条件であり、優しさは生きる資格を得るための条件であって、どちらかを欠けば生き抜けないか、生きる資格を失うかしてしまう。故に両者を兼ね備える必要がある、ということである。

 マーロウの言葉は、一瞥しただけでも、仮定法と対句というささやかなレトリックによって圧縮された情報がその周囲ににじみ出、あふれ、「名言っぽさ」をかもしだす。圧縮された情報を丁寧に展開してみると、それなりに説得的なロジックがそこに埋め込まれている。これをレトリックの力と言わずとしてなんと言おうか。

 ひるがえって、ATSUSHIの言葉が持つ説得力はレトリックによるものではない。これは優劣の問題ではなく、性質の違いにすぎない、ということはあえて強調しておきたいが、少なくとも、この言葉だけをATSUSHIというキャラクターから引き離してなお含蓄のあるかどうか、ということを考えればその意味はわかってもらえると思う。

オリヴィエ・アラン著、永富正之・二宮正之訳『和声の歴史』(と、菊地成孔+大谷能生『M/D』を少し)

文庫クセジュ448 和声の歴史 (文庫クセジュ 448)

文庫クセジュ448 和声の歴史 (文庫クセジュ 448)

 この本、原著の出版が1965年、邦訳が1969年に出ているのだが、手元にあるのは2007年の第十七刷。けっこうなロングセラーだ。ギリシア時代の音楽理論(旋法だとかいわゆるピタゴラス音律だとか)から20世紀中葉の当時最先端の現代音楽に至るまでを通覧し、和声ないし調性というシステムがいかにして確立し、そして飽和・崩壊することになったかをコンパクトにまとめた一冊になっている。豊富な譜例がひかれているのがかえって譜面に慣れていない初学者には敷居が高く思えるけれど、記述は端的でわかりやすい。この手の通史を読んで思うのは、調性というものが18世紀に確立するまでには少なくとも数世紀ものゆるやかな発展があったにもかかわらず、一度調性がひとつのシステムとして確立した途端に、ほんの2世紀足らずでその限界にまで達してしまう、近代特有のダイナミズムだ。もちろんこれは現在検討することができる資料の絶対的な量が中世以前はとても限られていて、その発展の様相が断片的にしか捉えられないという時代的な制限によるところも大きいのだが。

 本書はトータル・セリエリズムや電子音楽、具体音楽といった同時代の試みにも一瞥を向け、クラシック以前においては旋法が、クラシック音楽においては和声が担ってきた音楽の「牽引力」は、これまでとはまた別の場所に見いだされることになるのではないか、と論じて終わる。そこで少し感動してしまったのは、いささか些細な点ではあるのだが、音響物理学の同時代の成果に言及したくだりで、次のように述べるところだ。

われわれの感覚のなかで、もっとも分析的でもっとも具体的な耳の能力を、過小評価してはならない。真摯な態度で聞きもせず、くりかえして聞きもしないで、ある集合音または集合音の連結を、倍音列との関係がただちに認められないからまったく意味がない、と決めつけることはできないだろう。*1

 理論の檻の中に自ら閉じこもってしまえば自ずとそこは袋小路になってしまう。むしろ耳を開き、耳を頼りにすること。その重要性を説くこの一節は、本書を通読したときには存外に重く響いてくるものだ。

すこし雑記

 さて、和声ないし調性というシステムが飽和し、もはやそこに発展を見出すことはできない(そこに閉じこもるべきではない)という前提にたてば、前述のトータル・セリエリズム等の試みのように、音高と持続以外のパラメーターのなかにも「牽引力」(音楽をつくりだし、進めていく力)を見出していくことになるだろう。これは実際、無調から十二音技法を経由してトータル・セリエリズムに至る道程の教科書的な図式化にしかないかもしれないが、本書がその末尾で控えめに、しかし力強くそう示唆するとき、ふと思い出した文章があった。

[…]モーダリティという概念を最広義に拡大するとき、たとえば、あらゆるロックに偏在するブルース・ペンタトニックは旋律上のモーダリティですし、 編曲一般からエレクトリック・ノイズのイコライジング/フィルタリングまで、すべての音色/音質の変化もモーダリティと言えますし、これはのちにやりますが、ポリリズムを前提とした「リズム・チェンジ」もモード概念で説明が可能であり、前項でお話しした通り、音楽につねに付帯する「モード」、つまり服装や流行の変化も、これは言うまでもなくモード・チェンジです。*2

 菊地成孔大谷能生の『M/D』からの一節だ。この本は毀誉褒貶激しく、とりわけある一人の攻撃者に対して菊地が反撃に打ってでたことによってその印象は増してしまったわけだが、一見そうした怪しげな著者らのフカシとも思えるこの「モード」解釈と同じことを本書は言ってんじゃん。と思ったのだった。調性の崩壊に伴うオルタナティヴなシステムの探求は、まさしく「音色とか強弱の効果などという音の高さ以外の《特性のなかにあるいは見いだしうる》」*3にあるわけだ。なーんだそういうことか。というあれがあれしたのです。

*1:『和声の歴史』146頁

*2:菊地成孔大谷能生『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスⅢ世研究(上)』河出文庫、433頁、強調は筆者による

*3:『和声の歴史』142頁

最近のファンキ事情がけっこうイカれてる件

 なるほろファンキやばいことなっとんなーと思ってちょっと掘ったら凄いの一杯あった。気になったのだけまとめておきます。

 一瞬ファンキのトラップ化か、とおもったけどむしろグライムだな。鋭角的かつ謎のパーカッション。

 どんどんどんどん…… というだみ声ループにだみ声MCがのっかって中毒性という点では随一。リズムのパターンは割りと昔流行ったバイレファンキを思わせるのだが、なんと唐突にメトリックモジュレーションがかかってテンポが落ちる。ファンコットにもそういうマナーがあったな。シカゴ・ハウスのプリミティヴさに南米らしいリズムの遊びが加わった感じで良い。

 ぼんぼんぼんぼん…… という(以下略)。この曲のボーカルにかかってるデジタルリバーブというかフリーズ音みたいなエフェクトは他のファンキ曲でも頻出していて流行ってんのかこのプロデューサーが多用しているだけなのかちょっとよくわからん。銃声とローディング音というゲットーマナー丸出し感がたまらない。

 すかすか加減ではこれが物凄いことになってる。必聴。 サブベースがぶんぶん鳴るヴァース部が終わってサビっぽいところに入ると、ベースが鳴るのが2小節に一回、小節頭だけ。ほとんどウッドスティックとボーカルしか鳴ってないぞ。そして当然のようにメトリックモジュレーション。「ファ、ファンキってこんな音楽だったか?!」という感じはEquiknoxxを聴いたときに「ダ、ダンスホールって(以下略)」と思った感じに似ている。

 さっきのは別に一曲変なのがあるって感じじゃなくて、単音のパーカッションループ+2小節に一回頭にキック鳴るだけみたいなのは結構ある。それでも最高にポップな耳あたりなのはMCの存在感ありきというところか、それともリズムそものもに潜在的な人懐こさが宿っているのか。

 すかすかなうえにエモい。これがサウダージというやつだろうか。違うかもしれない。でもこの享楽と切なさがないまぜになった独特のエモさはサウダージっぽい。

 能天気なだけがファンキじゃねえぞ、という例としてはこれも耳にとまった。切ねえ! 切な系ファンキ。

 ちなみにここで挙げた曲はだいたい“Funk Putaria”というラベルがついてて、まあビッチからピンプまでセックスをネタにした曲程度の意味っぽいが、もしかしたらこういう音のスタイルまで指すのかな。ようわからん。YouTube上に曲を配信してる専門チャンネルとかファンキに合わせた振り付けを踊ってアップしてるチャンネルがうなるほどあって、それを順繰り聴いてるだけでとくに掘ってるというほどではないのだが、それでもおもしろいのがザクザク出てくる。

乱立しまくってるんであれだけど、Gêmeas. Com (上動画のチャンネルです)なんかいかにもブラジリアンビューティみたいな美人姉妹が冗談みたいにエッジーなファンキにのせて踊っていて最高だと思います。いちばんオーセンティックなチャンネルってどこなのかな~。LEGENDA FUNK ORIGINALやその姉妹チャンネル?DETONA FUNKなどが変なファンキいっぱい聞けるところって感じ。

 追伸:

 楽曲はファンキでもなんでもない普通のポップスなのだが、ガキが「マインクラフトの世界ではなんでもできる、家建てたりしようぜ!」みたいなラップをしている(Google翻訳に突っ込んでみた)。これはマジで意味がわからねえ。「妖怪ウォッチ面白い」のお歌~、とかないじゃん。なにこれ。

ロックンロールとトーン・クラスター(ヴェルヴェッツに関する覚書)

Velvet Underground & Nico-45th Anniversary

 いまさら言うことでもないだろうが、Velvet Underground(以下、ヴェルヴェッツ)の音楽性は混乱していると思う。一方にはダウナーで退廃的な1stがあり、もう一方には作りかけの甘ったるい珠玉のポップスが散りばめられた4thがある。一方にはノイジーでヒステリックな2ndがあり、もう一方には静寂さえもその内に畳み込んだ謎めいた3rdがある。プロデューサーであるウォーホールとの軋轢、あるいはメンバー間の音楽性の違い、などといったバンドそのものの紆余曲折が音にも反映されている、というのはあまりに図式的な、ありきたりな話ではある。

 僕がヴェルヴェッツの偉大さを感じるのはとりわけ上に掲げた“I’m Waiting for My Man”を聴いたときだ。ロックンロールという音楽の持つ形式をとことんまで誇張しきった成果がそこにあるように感じられる。

 ロックンロールの核をなすのは、グルーヴを寸断するカッティング・ギターである(と断言してみる)。軽快な循環的コード進行とエイトビートのリズムは水平的、ないしは回転運動的なグルーヴを常に生み出し続ける。そこに楔を打ち込むかのように、ギターのリフが重なる。たとえばチャック・ベリーがさりげなくリフに組み込むシンコペーションは、水平的なグルーヴの力点を垂直の力で常にずらし、断絶を生み出す。*1その瞬間に生まれるスリルこそがロックンロールなのだと思う。

 ひるがえって“I’m Waiting for My Man”では、ギターやヴォーカルをのぞく各楽器がまったく同じ8分音符のフィギュアを絶え間なく刻むことによって、ロックンロールはトーン・クラスターの連なりへと変容してしまっている。ひずみを全面に押し出したローファイな質感も、本来ならば和声的なはずの響きをノイジーなクラスターに近づけている。もはやそれは水平方向と垂直方向の運動のあいだに生まれる緊張関係を越えていて、クラスターの連なりそのものが前進し続けるかのようだ。

White Light White Heat

 ウォーホールのプロデュースを抜け出した2ndは、そのヒステリックなまでにノイジーな録音もあいまって、「クラスターの連なりとしてのロックンロール」というコンセプトを見事なまでに完遂している。同時代、ないし一世代あとのアート/ミニマル志向のロック(たとえばクラウトロック)が概して、ドローンが持つ豊かな倍音構造とか、反復パターンのつくりだすモアレのなかをサイケデリックにトリップする方向に向かいがちなことを考えると、ヴェルヴェッツのミニマリズムは特異だ。

E2-E4 - 2016 - 35TH ANNIVERSARY EDITION

 ヴェルヴェッツのミニマリズムは反復への陶酔であるとか、プロセスへの没入といったものとは無縁である。それはむしろいまここの連続性を断ち切って、クラスターが響くごとにそのプロセスをやり直す。ロックンロールのスリルがそのグルーヴにではなく、グルーヴの切断のほうへと導かれ、最終的には、徹底的な、しびれるほどの退屈さと化す。不思議なことに、その退屈さは聴くものを熱狂させてやまないのだ。

*1:水平/垂直という比喩はメロディ/和声みたいな対立と等価なものとして広く使われている… ように思うが、とくにここではそれを拡大して、時間軸方向を「水平」、ある時点で鳴る音の連なりを「垂直」として用いている。要するに右方向に進行していくピアノロールを思い浮かべて貰えればいい。チャック・ベリーのギターはその垂直方向に分節を刻み込んでいく。

ゲームボーイ(DMG aka 初代)をUSB電源から起動する

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 ゲームボーイを入手したんだけど単三電池四本用意するのはだるい。6Vで動くんだから、うーん、もしかしたらUSBから5Vひっぱってきたら動かせるのでは? と思って試してみた。

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 基板のこのへんをごにょごにょすると給電できる。ゲームボーイのACアダプタは極性が~ とか調べて唸っていたけれど、ジャックを取り除いちゃうんだったらべつに関係なかったね。むしろ回路図のほうが必要であった。なんでも偉い人ってのはいて、パーツを全部取り除いた基板のパターンとそれを回路図に起こしたものがフォーラムにアップロードされていた。

chipmusic.org

 これを参照したらいっちょあがり。ほんとはジャックにスイッチがついていて電池とACアダプタと電源がかちあわないようになっているのだが、そこはもう気をつけて使うしかない。直列に繋いでるわけじゃないから大丈夫だろうけれど……。

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 そいでこうじゃ。

 ついでにいわゆるProSound仕様(オーディオ直出し)にも改造。ステレオミニジャックならうなるほど余っているので、適当な穴をあけて設置したのち、ホットグルーでがちがちに固定。基板上のL/R/GNDからジャックにケーブルでバイパス。

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 詳細は以下のサイトなどを参照されたし。

http://blog.kyo5884.tk/archives/100blog.kyo5884.tk

 しかし、片チャンネルが出ない。はんだもまちがいなくのっているし…… と思ってボリュームに接点復活剤を噴いて少しぐりぐりしてやったらガリが落ちて無事に「ピコーン!」とな。ちなみに、入手時点ではスピーカーが使えないという説があったけど、念のためはんだづけしなおしてみたらふつうに鳴った。スピーカー自体が死ぬことってまずないからなぁ。ちなみに、元のイヤフォンジャックにプラグが刺さらないとスピーカーがオフにならない。それはこまるので、スピーカーのオンオフをコントロールするスイッチもつけた(本体下側白いケーブル)。だいたい慣れてくると信号の流れくらいは読めるようになってきますな……

 そういうわけで無事5Vでも動作する(ソフトがどこまで動くかは不明、だが、エネループを4本使っても動くという話があり、先駆者もいるので大丈夫だろう)。問題はこれでなにをするかだが、まああれですよ。あれにきまってるでしょ。もう何工程か必要だけど… あれをしたい。

 ちなみに、5Vで動くならよくある3V→5V昇圧ボードみたいなん噛ませたら単4×2とかで動くんちゃうん、と思ってebayで注文、取寄中。ebayって死ぬほど安くパーツ売ってるけどどういう商売が成り立っているのかいつも謎。届くのが無茶苦茶遅いことを除けば、最強の電子部品販売サイトと言ってよかろう。なんでも売ってるし。